名勝」カテゴリーアーカイブ

名勝一覧

名勝に指定された庭園の一覧です。

名勝の場所

盛美園(せいびえん)

明治時代に大庄屋を勤めた清藤家の代24代当主、清藤盛美により造営される。 明治時代の三大庭園の一つ。
庭園は、池を中心に「真」を表す築山、「行」を示す築山をつくり、 「草」は平庭になっており、 洋館からは津軽の田園と遠くの山々を借景にした遠大な景観を眺めることが出来る。


文化財種別:名勝 

〒036-0242
青森県平川市猿賀石林1
Tel:0172-57-2020

ホームページ:www.seibien.jp


 津軽の豪農であった清藤家の24代当主盛美が、小幡亭樹宗匠を招き9年の歳月をかけて明治35(1902)年に築造した庭園で、池を中心に「真」「行」「草」の三部で構成されている。
中心となる庭園建築物の盛美館の前に枯池と一段下がって池泉があり、池泉には神仙島と二島が配され逢菜の松が植えられている。そして、池泉を挟んで二つの築山が築かれ、それぞれ、「真」と「行」を表現しているといわれる。「草」は「行」の築山の南側、盛美館の北東面に配置された平庭で、見事なイチイの大刈込みがみられる。
盛美館より遠望すると、津軽平野の田園と山々が借景となり、四季折々の景観が楽しめる。
 盛美園は、大石武学流形式による作庭の代表的庭園である。大石武学流とは江戸末期、津軽藩を中心におこった作庭流派のひとつで、都落ちしてきた公卿が京都風の仏教文化に地方の古神道文化を取り入れてつくったのが始まりとされる。その名は開祖といわれる大石武学に由来している。

瑞楽園(ずいらくえん)

築山を築き、巨石を組み、枯滝や枯池を配して石橋を架けるなど、津軽地方に伝わる大石武学流庭園の造庭技法がよく残されている庭園。作庭にあたって描かれた写生図や改庭工事を行ったことを示す碑文が園内に残されており、作庭とその後の変遷を知ることができる。


文化財種別:名勝 

〒036-8384
青森県弘前市大字宮舘字宮舘沢26-2
Tel:0172-82-1642

ホームページ:http://zuirakuen.com/


 宮館地区の豪農對馬氏の庭園。對馬氏は津軽藩政時代に代々大庄屋をつとめていた。
 庭園の造りは、建物の南側を広くとって作庭された枯山水庭。二筋の大きな飛び石、礼拝石、手水鉢などを配置して、奥には枯滝や枯池を作り、石橋が架けられている。右(西)側背後に低い築山、左(東)側背後に小高い築山を築いて巨石を組み、その間に小さな四阿を設けて石塔を配置している。
 当時の武学流造園の第一人者と言われた高橋亭山によって明治23年(1890)から15年をかけて築庭された後、昭和に入ってから門人である池田亭月と外崎亭陽が、増改庭を手がけ昭和11年(1936)に完成した。庭園右手奥、稲荷神社の鳥居前に据えられた立石の背面には、庭園の由来が記されている。また増改庭するときに描かれた図面が今も残されている。津軽地方に伝わる大石武学流の作風を伝える代表的な庭園の一つである。

旧池田氏庭園(きゅういけだしていえん)

横手盆地の田園地帯に営まれ、その敷地は六角形で、池田氏の家紋である亀甲桔梗の亀甲の形をしている。 近代造園の先駆者である長岡安平(ながおかやすへい)が設計した庭園として、鑑賞上・学術上の価値が極めて高いと評価されている。 平成16年(2004年)2月に秋田県内では庭園として初めて国の名勝に指定された。


文化財種別:名勝 

〒014-0805
秋田県大仙市高梨字大嶋1
Tel:0187-62-6257

ホームページ:www.city.daisen.akita.jp/bunya/ikedashiteien/


 池田氏は明治中頃から戦前まで高梨村長を務め、山形県の本間氏、宮城県の斎藤氏と並んで東北三大地主として知られている。庭園は池田氏の13代当主文太郎が明治29年(1896)の震災によって家屋が倒壊したのを機に、耕地整理事業と合わせて所有地を集約・整理して屋敷地を拡張し、近代造園の祖、長岡安平の助力を得て造営され、大正年間にほぼ完成した。
 庭園は仙北平野のほぼ中央部にあり、東に奥羽山脈、西に神宮寺岳、南西に鳥海山を遠く望む広大な田園地帯に囲まれている。主庭園は中央に中島、西岸に巨大な雪見燈籠を配した浅い園池を中心として、流れを巡らせた独特な地割をしている。雪見灯籠は高さ4m、笠の直径約4mの巨大なもので、印象的な主景物となっている。大正11年(1922)竣工の洋館は、秋田県内で最初の鉄筋コンクリート造建築物であり、国の重要文化財に指定されている。

旧秋田藩主佐竹氏別邸(如斯亭)庭園
(きゅうあきたはんしゅさたけしべってい(じょしてい)ていえん)

如斯亭庭園は、寛政年間頃に秋田藩9代藩主佐竹義和によって整備された藩主の御休処であり、佐竹氏居城の久保田城搦手(裏門側)にあたる。 遠く太平山系を望む景勝地に営まれた。 2007年に国の名勝に指定。 2014年から遺構や史料を基に修復整備し、2017年10月に開園。


文化財種別:名勝

〒010-0834
秋田県秋田市旭川南町2-73
Tel:018-834-6300

ホームページ:https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1002685/1013885/1002284.html


 本庭園は江戸時代中期に東北の田園地帯の景勝地に造られており、周囲の山並みと庭園の築山とが調和して風土的な特色を持っている。
 庭園は北を正面として作庭されており、遠方、北から東にかけて新城山、太平山系を望んでいる。庭園の北東に最も高い築山となる観耕台があり、観耕台から南に3つと西に1つの築山が連なる。敷地中央には浅い流れの園池「玉鑑池」が設けられ、その中央に長径約3mに渡る岩塊で中島「巨鼈島」が配されている。東の築山の峡谷から流れ出る水は、伝い落ちの滝「仁源泉」を作って園池に流れ着いたのち、西から再び流路に流れ出す。流れは景石「渇虎石」の南側を流れて石橋「星槎橋」をくぐり、渓流を作って一段低い茶室「清音亭」の露地に達する。この東から西への流路は水流が絶えることがなく、「園内十五景」などの構成は如斯亭の名と相俟って独特で芸術的価値が高い。

酒井氏庭園(さかいしていえん)

庄内藩主酒井氏の旧御隠殿北面に残る築山泉水庭で、致道博物館内にある。 江戸時代中期に行われた書院庭園の様式と手法をよく残しており、東北地方では稀にみる典型的な書院庭園として貴重なことから、 1976年に国の名勝に指定された。


文化財種別:名勝 

〒997-0036
山形県鶴岡市家中新町10−18 
致道博物館内
Tel:0235-22-1199

ホームページ:http://www.chido.jp/


 現在は、致道博物館の敷地内にある。庄内藩主酒井氏の旧御隠殿北側に残る築山泉水庭。
 池の対岸には築山があり、その中腹に石が立てられ、庭の中心として他の造景物が配置されている。左側に枯滝を組んで渓谷のような風景をつくり、滝の下は荒磯風に仕立てている。右側に設けられた出島には枝を張り出したマツの木が植えられ、マツの左側前の水際に、亀頭の形をした珪化木の立石が水中に据えられている。その奥には深い入り江が造られており、緑陰の静かな景色をつくっている。 築造当時には、築山の向こう、遥か遠方の鳥海山を借景として取り入れられていた。
 江戸時代中期に行われた書院庭園の様式と手法をよく残しており、東北地方では稀にみる典型的な書院庭園である。

玉川寺庭園(ぎょくせんじていえん)

玉川寺庭園は1450年代に作庭され、1650年代の改修を経て今に伝えられる。 自然の山から流れ落ちる滝を配し、大きな池を中心とした池泉廻遊式蓬莱庭園。 全国でも珍しいクリンソウの純群落がある。 1987年に国の文化財名勝に指定されました。


文化財種別:名勝 

〒997-0121
山形県鶴岡市羽黒町玉川35
Tel:0235-62-2746


 玉川寺は出羽三山北西のふもとにあり、鎌倉時代の建長3(1251)年に曹洞宗の開祖道元禅師の高弟だった了然法明禅師によって開山されたと伝えられる。庭園は室町時代の1450年代に作庭され、江戸時代の1650年代に改修されている。広い池を中心とした池泉回遊式蓬莱庭園で、庭園の滝は自然の山から流れ入るように配置されている。池の辺には数多くの石組が置かれ、石と石の間には隙間なく丸く刈り込まれた低木類が植栽されている。飛び石の周囲など表土の出ているところは苔むして庭の景色に趣を添えている。全国でも珍しいクリンソウの純群落があることでも知られており、別名「九輪草の寺」ともいわれている。

總光寺庭園(そうこうじていえん)

本堂と庫裡書院から観賞するように築山と池泉を配置した築山林泉庭。 東の山頂に「峰の薬師堂」、山間に「中の薬師堂」が望まれ、不老の滝からの清流が波分け石を経て池泉に注いでいる。 1996年に国の名勝に指定され、「蓬莱園」と呼ばれる。


文化財種別:名勝 

〒999-6831
山形県酒田市字総光寺沢8
Tel:0234-62-2170

ホームページ:www.sokoji-sakata.com


 總光寺は、南北朝時代に高僧月庵良圓禅師が、峰の頂に薬師仏一体を祀って開山したのが始まりと伝わる曹洞宗の禅宗寺院である。
 境内は正面を西向きにされ、庭園は、本堂と庫裡の裏側に造られた築山林泉庭である。書院から庭を望むと、左手の最上段に滝石組が組まれて水を落とし、中央の築山脇を流れて池に注ぐ。池には平坦な中島が設けられて、池水が南西の隅から庫裏脇に落とされている。書院から庭に出ると、池の護岸石から五つの臼石の沢飛石を伝って中島に渡れる。中島の南北両端に大振りの石が据えられている。中島と池の東岸は近く一石の橋が架けられている。対岸に渡ってからは、斜め上方に疎らに飛石を打ち、左手の築山奥の草地へと続く回遊路でもある。
 江戸時代後期に完成した典型的な日本庭園であり、風格のある禅宗寺院の庭園である。

本間氏別邸庭園(鶴舞園)(ほんましべっていていえん(かくぶえん))

本間家四代・光道が築造した池泉廻遊式庭園。主屋の2階から鳥海山を借景として地形の変化に富んだ池泉庭園の全景を俯瞰することができる。藩主酒井氏は秀麗な鳥海山を望む建物に「清遠閣(せいえんかく)」と名付けたほか、池の中島の松に鶴が飛んできたことから、「鶴舞園」と名付けた。


文化財種別:名勝 

〒998-0024
山形県酒田市御成町7−7
公益財団法人 本間美術館
Tel:0234-24-4311

ホームページ:www.homma-museum.or.jp


 本間氏は、近世後期から近代にかけて日本海の海運業などを主軸に成長した豪商で東北三大地主として知られる。
 庭園のはじまりは江戸時代の文化10(1813)年に、庄内藩主・酒井忠器の領内巡検に先立って、本間氏の四代当主・本間光道が藩主の休憩所として別邸を構えたもの。その築造には、近世の港湾都市酒田を支えた荷役労働者の冬季における労働力を活用して造営した。
 庭園の様式は、主屋と池泉からなる回遊式庭園で、赤や青など色彩豊かな景石が用いられ、清遠閣の2階座敷からは,鳥海山を借景として地形の変化に富んだ池泉庭園の全景を俯瞰できる。巡検の際に来遊した藩主・酒井忠器は、鳥海山を望む建物に「清遠閣」と名付けた。また、池泉中島の松の木に鶴が舞い降りたことから、庭園に「鶴舞園」と名付けたといわれる。

南湖公園(なんここうえん)

日本の公園制度は明治に入った1873年から始まるが、それに先んじた江戸時代末期、白河藩の第12代藩主松平定信により、身分の差を越え武士も庶民も憩える「士民共楽」という思想を掲げて、庭園の要素を取り入れて享和元年(1801)に築造された。 1924年に国の史跡・名勝に指定される。


文化財種別:史跡・名勝

〒961-0812
福島県白河市南湖1番地外
Tel:0248-27-2310 
白河市建設部文化財課

ホームページ:http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001385.html


 江戸時代の寛政の改革で知られる白河藩主松平定信により築造された。定信は、身分の差を越えて誰もが憩え、塀がなく、いつでも誰でも訪れることができる場を造った。
 公園は北になだらかな丘陵と、南に池(南湖)があり、周囲一帯の広々とした景色を作っている。丘陵には松が茂り、その中に様々な樹木が混生している。樹林の中には種類に富んだ草花が生育し、四季折々に楽しむことができる。西の那須連山、南の関山などを借景とした、奥行きのある景観も、訪れる人の目を楽しませている。
 遊山だけでなく築造自体が領民の失業対策でもあり、また、新田開発など多様な目的をもって造られた景勝地で、池沼を中心にされた例は少なく、園名は、中国の作庭君「洛陽名園記」にある「湖園」の儀式を模したと考えられる。
 なお、「南湖」の名称は、中国の詩人李白の「南湖秋水夜無煙」の詩から取ったとも、居城小峰城の南にあるからとも言われる。

会津松平氏庭園 御薬園(あいづまつだいらしていえん おやくえん)

室町時代・約600年前の会津領主が別荘を建てたのが始まりとされる。中央に心字の池を配した回遊式庭園。 「御薬園」の名前の由来は、各種薬草を栽培する薬草園が設けられたことによる。 1932年に国の名勝に指定される。


文化財種別:名勝

〒965-0804
福島県会津若松市花春町8−1
Tel:0242-27-2472

ホームページ:http://www.tsurugajo.com/oyakuen/


 庭園の東側に連なる山並みを借景にした庭で、江戸時代の代表的な池泉回遊式の大名庭園である。室町時代に葦名盛久が霊泉の湧きだした地に別荘を建てたのがはじまりとされている。後に会津藩主松平氏の別荘となり、様々な薬草が栽培された薬草園が置かれたことから、「御薬園」と呼ばれるようになった。庭園は江戸時代中頃に築造されたといわれるが、詳しい年月は不明といわれる。
 庭園の中央には、中島がある心字池があり、島には橋が架けられ、数寄屋風茅葺の平屋「楽寿亭」が造られている。池の南東端に滝が造られ、南側には石敷の通路がみられ、水辺には処々に石が配されている。南から東にかけてモミやスギ、マツなどの大樹が繁り、北側にはアカマツが点々と生育している。
 戊辰戦争の時には、新政府軍の療養所として使用されたため、戦火に巻き込まれずに往時の姿をとどめた。

偕楽園(かいらくえん)

金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園のひとつ。 天保13年(1842年)水戸藩第九代藩主徳川斉昭により造園された。 偕楽園や千波公園を含む周辺の公園全体の面積は約300ヘクタールと都市公園としては、アメリカ・ニューヨーク市のセントラルパークについで世界第2位。


文化財種別:史跡・名勝

〒310-0033
茨城県水戸市常磐町1-3-3
Tel:029-244-5454


 第九代水戸藩主徳川斉昭が領民と偕に楽しむために造成した公園であり、日本三名園の一つに数えられる。約100品種の梅が3,000本ほど植えられ「梅の公園」として知られる。
 敷地の北側になる表門から入ると、モウソウチクの林が広がり、大きなスギの木立を右に坂を下ると、水が湧き出る「吐玉泉(どぎょくせん)」をみることができる。さらに高台へ向かって進むと「好文亭」にたどり着く。「好文亭」のある高台では敷地の南東に隣接する千波湖や周囲の樹林を一望できる。梅の公園として知られているが、梅のほかにもツツジやハギ、フユザクラなど四季を通じて花を楽しむことができる。
 「偕楽園」の名は、中国の古典「孟子」の一節「古の人は民と偕(みな)に楽しむ、故に能く楽しむなり」から名づけられた。

西山御殿跡 (西山荘)(にしやまごてんあと(せいざんそう))

水戸藩2代藩主徳川光圀の隠居所の邸宅に造られた庭で、久慈川水系の源氏川の谷津の最も奥部に造られている。光圀の死後に編纂された「桃源遺事」に記されている敷地全体の絵図「西山図」には、カリンやウメ、クマザサなどの薬草となる植物が数多く植えられていたことが知られている。


文化財種別:史跡・名勝

313-0007
茨城県 常陸太田市新宿町590
0294-72-1538


 水戸藩2代藩主徳川光圀が、元禄3(1690)年に藩主を退き隠居した邸宅の庭である。御殿は木造平屋建て茅葺屋根の数寄屋造りで、茅葺屋根の棟にイチハツが植えられている。イチハツは昔、大風を防ぐと信じられ藁屋根によく植えられたといわれる。光圀の隠居時にも植えられていたことが、「桃源遺事」にも記載されており、往時の様子をよく残していることがわかる。
 庭は、御殿の南面に広がっており、白蓮池と紅蓮池と呼ばれる2つの池が流れでつながっている。白蓮池は御殿の南西部にあり、池の水は東部にある紅蓮池へと流れている。2つの池の間に御滝と呼ばれる小さな滝があり、流れの途中に注ぐように造られている。御滝は、昭和43年の改修工事で、岩盤をくりぬいたトンネル状の水路が造られ、桜谷津から水を引き込んで滝口に吐水する構造が確認されているが、現在は水が流れていない。御滝の上部は観月山と呼ばれる築山が造られており、光圀が月見の宴を催したといわれる。

 

旧芝離宮庭園(きゅうしばりきゅうていえん)

小石川後楽園と共に、江戸初期の大名庭園の一つ。 元禄年間、小田原藩主大久保氏の上屋敷経営にともなって作庭される。 のちに清水家、紀州徳川家と伝わり、明治8年宮内省の所管に移り、翌9年芝離宮となった。 1979年に文化財保護法による国の名勝に指定された。


文化財種別:名勝

〒105-0022
東京都港区海岸1−4−1
Tel:03-3434-4029

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index029.html


 江戸時代延宝6(1678)年に、当時の小田原藩主であった老中・大久保忠朝が、徳川家から海を埋め立てた土地を拝領する。元禄年間に入り、その土地に上屋敷を構えるのに伴って作庭された。屋敷を建てるために小田原から庭師を招いて庭を造り、当時は「楽寿園」と称した。幕末から明治初期にかけて所有者を数度変えたのち、明治8(1875)年に宮内省の所管となり、翌9年には「芝離宮」となった。
 庭園の主体は、岬や入り江などがある曲がりくねった汀線をもつ広い池で、池の中央の島に東西に橋を架けるなど、中島の蓬莱石組、築山の配置、石の組み方、橋の架け方など、古くから伝わる作庭の手法を残している。
 江戸時代に造られた、大名庭の作庭技法が見られる優れた庭園の一つ。

向島百花園(むこうじまひゃっかえん)

江戸時代、文化・文政期の1805年に造られた。 開園当初は梅園を主体として営まれたが、後に園主や文人達の構想で詩歌にゆかり深い草本類が多数栽培される。 小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なる庶民的で、文人趣味豊かな趣きをもつ庭園。


文化財種別:史跡・名勝

〒131-0032
東京都墨田区東向島3−18−3
Tel:03-3611-8705

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index032.html


 町人文化の最盛期となる文化・文政期に、骨とう商を営む佐原鞠塢が、向島にあった旗本の屋敷跡を買い求めて造られた庭園であり、江戸時代後期の経済的、文化的に豊かになった庶民によって造られた民営の花園である。開園当初300本以上のウメが植えられ、「新梅屋敷」と呼ばれた。文人達の構想で、万葉集の草木や詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培し、1年中花の絶えることがなく「百花園」とも称された。
 建物、池や園路、30基を超える石碑が配された地割は優れたものであり、現代に残る数少ない江戸時代の文人庭の遺構である。江戸時代からの建物は昭和20年に焼失するが、今も景観は当時の趣きをのこしており、都内に現存する他の大名庭園とは異なる美しさを見ることができる。

旧古河氏庭園(きゅうふるかわしていえん)

大正6(1917)年、飛鳥山の南東の台地とその南側の斜面に造営され、台地下の斜面から低地にかけた回遊式の日本庭園は、1919年に完成した。 東京に特徴的な台地・斜面・低地の地形を生かした庭園は、近代の東京において造営された庭園の典型。


文化財種別:名勝

〒114-0024
東京都北区西ケ原1−27−39
Tel:03-3910-0394

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index034.html


 大正時代に古河虎之助が造営した庭園。武蔵野台地の東端にある飛鳥山の南東にあり、台地と南側の斜面、低地を巧みに利用して造られている。
敷地北側の台地上には主屋の洋館を中心に造られた整形式の洋風庭園が、台地の斜面から低地の敷地南側には、回遊式の日本庭園が造られている。そして敷地の東側に茶室とその露地があり、洋風庭園、日本庭園、茶室の庭の3要素から構成されている。
洋風庭園は主屋とともにジョサイア・コンドルの設計で、大正6(1917)年に造られ、日本庭園は京都の庭師7代目小川治兵衛(植治)によって作庭された。東京の特徴的な地形を生かし、伝統的な手法と近代的な技術によって和洋の見事な調和を実現している。近代の東京に造られた庭の原型を留める貴重な庭園である。

殿ヶ谷戸庭園(隨冝園)(とのがやとていえん)(ずいぎえん)

国分寺崖線の南側斜面を利用し、その縁辺部の湧水と斜面部の雑木林など豊かな自然環境を巧みに生かした近代の郊外別荘。 園内の「次郎弁天の池」は東京都名湧水57選にも選ばれている。 2011年に国の名勝に指定された。


文化財種別:名勝

〒185-0021
東京都国分寺市南町2-16
Tel:042-324-7991

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index036.html


 武蔵野台地の南縁を成す東西方向の段丘崖は「国分寺崖線」と呼ばれ、随所に小さな谷戸が段丘を刻み、ハケと呼ばれる崖線の下端部付近の礫層から湧出する湧水がある。殿ヶ谷戸庭園は、崖線の地形と湧水を利用し、武蔵野を代表するアカマツ・クヌギ等から成る雑木林の風致を生かして造られた近代の別荘庭園である。敷地は、南に張り出す台地の東辺にあり、高低差が10m以上ある崖線の傾斜地を挟んで、台地上の平坦地から下方の湧水地へと及ぶ。
 庭園は、門から主屋西側の玄関前の馬車回しへと通ずる導入路馬車道、主屋の南東面、台地上に広く展開する芝生地の洋風庭園、アカマツやモミジ、竹林などの樹林とクマザサに覆われた崖線斜面、崖線下の湧水を利用して造成した次郎弁天池を中心とする和風庭園の四つで構成され、それぞれ道・石段・延段などによって結ばれている。

旧朝倉文夫氏庭園(きゅうあさくらふみおしていえん)

日本の近代彫刻界の巨匠である朝倉文夫の住居兼アトリエ。創作活動と後進指導の場として使い続けたアトリエ棟には屋上庭園があり、昭和初期における鉄筋コンクリート建築の屋上緑化の事例として貴重である。建物を含む敷地全体が国の名勝に指定されている。


文化財種別:名勝 

〒110-0001
東京都台東区谷中7−18−10
Tel:03-3821-4549

ホームページ:www.taitocity.net/zaidan/asakura/


 日本の近代彫刻界の巨匠・朝倉文夫のアトリエを兼ねた邸宅の庭で、東京谷中の住宅街の一角にある。朝倉文夫が亡くなる昭和39(1964)年まで自らの創作活動と後進指導の場として使い続けた。
 昭和10(1935)年の改築によって、現在みられる鉄筋コンクリート造のアトリエ棟や木造の住居棟などの建物が形づくられた。四方を建築物に囲まれた中庭は南北約10m、東西約14mの空間で、その大半を池(水面)が占めている。随所に各地より取り寄せた石が配され、春はウツギ、秋はモミジなどが楽しめ、多彩な景石と植木とで濃密な水景を創りあげている。また、アトリエ棟の屋上庭園は、昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート建築の屋上緑化の事例として貴重である。
 当時屋上は、朝倉文夫が自邸とアトリエにおいて開いた「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜を栽培しており、日常的な園芸実習の場として使われていた。

瑞泉寺庭園(ずいせんじていえん)

鎌倉時代末期、夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園。 池をはじめ全域にわたって埋没、荒廃していたが、昭和44〜45年に発掘復原された。 夢窓疎石の初期の作庭遺構で書院庭園の原点となる庭園であり、鎌倉に残る鎌倉時代の唯一の庭園。


文化財種別:名勝 

〒248-0002
神奈川県鎌倉市二階堂710
Tel:0467-22-1191


 鎌倉時代末期の1327年に夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園。境内から拝観できる池庭の池畔には、凝灰岩の岩をえぐって削り出して造られた「岩庭」と呼ぶべき特徴ある意匠をみることができる。この池庭から急な坂を登ると山頂の小亭にいたる。この小亭は、「徧界一覧亭」と称されている。「徧界」とはすべての世界のことを指し、山頂にあって周囲を一望できることからその名がついた。
 江戸時代には寺の全域にわたって埋没、荒廃していたが、昭和44(1969)〜45(1970)年に発掘、復元された。名僧であり作庭家である夢窓疎石の初期の作庭遺構である。鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園であり、書院庭園のさきがけをなす貴重な庭園である。

建長寺庭園(けんちょうじていえん)

 庭園は園内に建つ江戸時代の1692年の銅碑より江戸時代初期の作庭もしくは当時の改修によるものである。 方丈(住職の居所)の背後にあり、池に鶴島と亀島を配し、蓬莱山に見立てた蓬莱石を据えた蓬莱式庭園とも呼ばれる。回春院の大覚池は創建時に境内一帯を水害から守るための調整池として造られた。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-8525
神奈川県鎌倉市山ノ内8
Tel:0467-22-0981


 建長寺は臨済宗建長寺派の本山であり、北条時頼の開基で建長5(1253)年に創建された寺である。境内は対称型様式で、仏殿の前栽に槙柏が列状に植栽されている。
 書院庭園は、延宝6(1678)年の図絵に見ることができ、園内に建てられている元禄5(1692)年の銅製の碑によれば、江戸時代初期の作庭か、あるいは当時実施された改修とあわせての作庭と推察される。現在の庭は、江戸初期の図絵にもとづいて、平成15年(2003)に復元整備されたものである。庭園の造りは、東から北にかけて丘があり、丘脚部に曲線形の池が配置されている。池には鶴島と亀島が配置されており、橋が架けられていた。所々に石が据えられ、マツやマキなどの針葉樹の矮樹が植えられているほかにツツジが点植され、灯籠が据えられている。庭の周囲にはケヤキやカエデなどが鬱蒼と茂り、全体に簡素でありながら清雅の趣がある庭となっている。

円覚寺庭園(えんがくじていえん)

総門に通じる白鷺池(びゃくろち)と称する池には四季折々の自然の情景が周囲を飾り、仏殿の前にはビャクシンの古木がある。 住職の居所である方丈には妙香池(みょうこうち)と称する池を中心にした庭園があり、これらは昭和7年(1932)、国の名勝に指定された。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-0062
神奈川県鎌倉市山ノ内409
Tel:0467-22-0478


 仏殿の後背にある舎利殿の台地の下に「妙香池」と称される放生池が配置されている。この池を中心とした庭園は、建武2(1335)年に臨済宗の僧夢窓疎石によって作られたといわれている。
池は岩盤を掘って作られており、北岸の山側に波浪によって浸食されたかのように削られた岩盤、「虎頭岩」が配置されている。この庭は江戸時代初期の絵図にもとづき、平成12年(2000)、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元された。
 明治期の横須賀線の敷設や、県道の開通によって境内の往時の形体は損なわれ、方形の広場などは、その痕跡をとどめていないが、総門の前に敷かれた線路を挟んだ踏切の向こう側には、左右対称の方池が残されている。この池は「白鷺池」、池に架かる石橋は「降魔橋」と称される。石橋はまっすぐに総門に通じており、周囲には鬱蒼としたスギの老樹が立つなど、往時の面影をとどめている。

三溪園(さんけいえん)

東京湾に面した「三之谷」と呼ばれる谷あいの地に近代横浜随一の実業家、原三溪により造られた。明治39(1906)年に一般公開された外苑と、私庭としていた内苑に分かれる。京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころ。


文化財種別:名勝 

〒231-0824
神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
Tel:045-621-0634

ホームページ:www.sankeien.or.jp


 横浜市東南部の丘陵と谷からなる変化に富んだ地に、近代横浜の実業家・原三溪(本名、富太郎)により造られた。三溪は明治32(1899)年に家督を相続し、まもなくして自らの構想で造営を始めた。明治35(1902)年に「鶴翔閣」を新築し、旧天瑞寺寿塔覆堂や茶室寒月庵等の移築を始めた。明治38(1905)年、関西方面に庭園視察のため庭師を派遣し、翌年には現在の外苑部分が概ね整備を終え、同年5月に、一般公開された。私園の公開は、当時において画期的な試みであった。開園後も造営は続き、大正11(1922)年に聴秋閣が移築されて完成された。
 代表的な景観として、対岸の丘の上に旧燈明寺三重塔を仰ぐ大池や、前面の池の水面に映り込む緑の丘陵を背景にした臨春閣、緑豊かな渓流と聴秋閣の絶妙の対比などがある。
 庭園内部からの視覚に、近代化による周辺環境の変化をうかがわせるものがほぼ遮断されている点など、大都市の大庭園としては稀有の特色をもつ。

貞観園(ていかんえん)

江戸中期に創設された林泉園池。作庭の手法は京都風ながら佐渡の赤玉石を多く使用し、地元の特色をもつ。 園内にはスギゴケやジャゴケなどの苔が百数種類を数え、苔で有名な京都の西芳寺などに次いで稀にみる苔の庭。


文化財種別:名勝

〒945-1502
新潟県柏崎市高柳町岡野町593
Tel:0257-41-2100

ホームページ:www.teikanen.jp/


 江戸中期に創設された林泉園池で、大庄屋であった村山家の庭であり、八代当主亀石翁の時には、幕府の庭師であった九段仁右衛門と藤井友之進らが招かれ、作庭に関わったといわれる。
 園名は、天保14(1843)年に越後の儒学者、藍澤南城が、中国、六朝時代の詩人であった謝康楽の詩句「遺情捨塵物、貞観丘壑美」からとって、命名した。謝康楽は繊細な表現で山水の美をうたった詩人であったとされる。
 貞観堂という堂の前に池を造り、滝流れを造っている。数多くの庭石を置き、「觀瀑亭」、「四時庵」、「抱月樓」、「環翠軒」と称される茶室などの建物が配されている。小堀遠州の手法を取り入れて、桂離宮を模して造られており、京都風ながら佐渡の赤玉石を多く使用し、地元の特色も持っている。園内にはスギゴケやジャゴケなどの苔が百数種類を数え、苔で有名な京都の西芳寺などに次いで稀にみる苔の庭となっている。

渡辺氏庭園(わたなべしていえん)

作庭の年代は明らかでないが、江戸中期の作とみられている。 京都より遠州流庭師を招き構築された。 庭景の中心をなす池は心字型で築山に枯滝、州浜に石灯籠、北側に井戸囲いがほどよく配置され、江戸時代中期の庭園構成がよく保存されている。


文化財種別:名勝

〒959-3265
新潟県岩船郡関川村大字下関904
Tel:0254-64-1002

ホームページ:www.watanabetei.com


 越後下関の豪商で豪農であった大庄屋の渡辺氏の邸宅の庭であり、東向きの庭で、心字池が中心に置かれている。南庭園の棟木に明和6(1769)年造立の墨書があることから、庭はこの頃の作とみられている。池の西に一の山、二の山、三の山と三つの築山が築かれている。一の山には不動石が立てられており、枯滝を表している。その対岸の池の東側は、玉石を敷き詰めて州浜が仕立てられており、数多くの庭石が組まれて、多数の飛石が配され、鶴と亀に見立てた植栽などが施されている。春の白梅、夏のカキツバタ、秋は紅葉、冬は墨絵のような雪景色と、四季折々に眺めを楽しむことができる。
 庭の景色に趣を添える石灯籠と井戸囲いが程よく配置され、庭園の地割はいわゆる京都風となっている。
 江戸時代中期の庭園構成がよく保存されており、地方への文化の浸透があらわれた例であり、日本庭園史にとって貴重とされる。

旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園(きゅうしばたはんしゅしもやしき(しみずだにごてん)ていえん)

越後を代表する大名庭園。江戸時代初期の万治元(1658)年に建立された溝口氏の下屋敷清水谷御殿の庭園で元禄年間(1688~1704)に作庭された。
下屋敷・御茶屋それぞれに異なった趣の庭園が良好に保存され、公儀茶道方が度々下向して指導作庭されたことがわかる貴重な庭園である。


文化財種別:名勝 

957−0056
新潟県新発田市大栄町7−9−32
0254-22-2659


 慶長3(1598)年から江戸時代を通じて、蒲原平野の経営に努めた溝口氏の下屋敷に作られた庭園。
 御殿建立後に幕府茶道方の縣宗知を招いて作庭の指導を受け、元禄年間(1688~1704)に清水谷、五十公野、法華寺などの庭園が完成した。清水谷の庭園は大池泉を中心とした池泉回遊式庭園で、南の最奥部に築山を築き、池は左右に湾入して水面に広がりを持たせている。池辺には左手に州浜、右手に岩を組んだ険しい岬の景色を創り出しているほか、大小の中島が設けられ水面にせり出すように亭が造られている。中絞りの池の形は前後の水面を大きく見せる効果を生んでおり、往時の庭園地割が良く保存された大名庭園である。
 五十公野御茶屋は藩主の別邸で、参勤交代時に旅装を改めたほか、茶寮として重臣にも開放し遊楽の場とした。池や緩やかな起伏の築山を設けてスギやマツを植え、出島にはゴヨウマツ、御茶屋近くにはウメを植えるなど植物観賞を中心とした庭園で、石組みはほとんど施されておらずゆったりとした造りとなっている。

成巽閣庭園(せいそんかくていえん)

文久3(1863)年に、兼六園の南に巽御殿(たつみごてん)の主庭として作庭された。 幕末から明治、昭和にかけて築山の造設や水路の作り替えなど、時代を重ねて整えられてきた。 水流を有する清邃(せいすい)で調和に優れた平庭庭園である。


文化財種別:名勝

〒920-0936
石川県金沢市兼六町1番2号
Tel:076-221-0580

ホームページ:www.seisonkaku.com


 成巽閣庭園は、特別名勝兼六園の南に隣接し、加賀藩13代前田斉泰の母、真龍院の隠居所として文久3(1863)年に造営された「巽御殿」とその主庭を築いたのが始まりである。
書院と茶室、水屋から成る「清香軒」に面する主庭「飛鶴庭」は、水が流れる清邃な平庭である。
 巽御殿は、明治7(1874)年に「成巽閣」と改称され、この頃に主庭から分水して、「万年青の廊下」の縁先に面する中庭に遣水として通水させ、築山を設けて、深山幽谷の景趣を創り出した。
 明治42(1909)年に、後に大正天皇となる東宮の北陸行啓をきっかけに、前庭に表門、馬車回し、玄関が整備された。また、「つくしの廊下」の縁先に面する中庭では、既存の能舞台を除却した後、主庭から続く水路を直流から緩やかな曲流に造り替え、平明な風情を創り出した。
 昭和24(1949)年頃には、現在の主庭、中庭、前庭からなる成巽閣の地割りが整ったとされる。
 時代を重ねて整えられてきた、水流を有する清邃で調和に優れた平庭庭園である。

那谷寺庫裡庭園(なたでらくりていえん)

寛永12(1635)年に那谷寺の庫裏と同時に築造された。 西側の茶室如是庵から東側の小池にかけて飛石が配置され、所々に石が立てられ、北隅にシイの大木が立つほか、 東の池を挟んでスギの巨樹が高くそびえるなど老樹が鬱蒼と茂る。 景致幽邃の庭園。


文化財種別:名勝

〒923-0336
石川県小松市那谷町ユ122番地
Tel:0761-65-2111

ホームページ:www.natadera.com/spot/#shointeien


 那谷寺は養老元(717)年、泰澄大師が岩窟に千手観音を安置したのがはじまりと伝えられる真言宗の名刹であり、安土・桃山時代の火災のため衰退していたが、寛永12(1635)年に加賀三代藩主前田利常によって再建された。庭園は、那谷寺の庫裏と同時に築造されており、小堀遠洲の指導を仰ぎ、作庭奉行の分部ト斉に造らせたといわれる。
本庭は、書院裏から本堂の裏にかけての北庭で、北西隅にある茶室、如是庵から書院裏をつないで東部の池庭へと飛石が打たれ、ところどころに石が立てられている。書院の角、北東部に三尊石が組まれた配石があり、庭の主要な景観が構成されている。        
北隅にシイの大木が立つほか、東の池を挟んでスギの巨樹が高くそびえるなど老樹が鬱蒼と茂っている。
小松を訪れた松尾芭蕉が那谷寺を参拝し、「石山の石より白し秋の風」の名句が残された。

伊藤氏庭園(いとうしていえん)

代々庄屋を務めた伊藤家の当主で、当時医業を営んだ伊藤助左衛門が、江戸享保年間前後に普及した庭園図本を基に作庭した。 作庭当初の姿をよくとどめていることから、鑑賞的価値だけでなく庭園史資料としても貴重な庭園である。


文化財種別:名勝

〒919-0113
福井県南条郡南越前町瀬戸29−2

ホームページ:www.town.minamiechizen.lg.jp/kurasi/103/128/p001179.html


 江戸時代の中期から後期にかけて編纂され普及した作庭書「築山庭造伝」を基にして作庭された。造営したのは、代々庄屋を務めた伊藤家の10代当主で、当時医業を営んだ伊藤助左衛門。
 背後の山林を借景に正面の築山に三尊石、前面に座禅石、右側には山腰石、左側に不動石が据えられている。築山の裾に造られた庭池に、出島や中島、舟石、石橋が配置されている。建物側の汀の中ほどに礼拝石、両端に二神石が配置されている。庭園の東にイチイの巨樹が茂るほか、カエデやシャクナゲ、サザンカなどが植えられた座視鑑賞の築山林泉式庭園である。
 作庭当時の姿が残されているといわれ、私邸の庭園でありながら、作庭書に忠実に作庭されており、伝統的日本庭園のありようを見ることができる。

城福寺庭園(じょうふくじていえん)

江戸時代中期に真宗出雲路派の寺院・城福寺の庫裡に造られた庭園。 庫裡の南側に位置し、正面の生垣越しに文室山などの日野山系の山並みを借景とした枯山水庭園である。 江戸時代中期の作庭手法をよく伝える庭園である。


文化財種別:名勝

〒915-0026
福井県越前市五分市町11−26
Tel:0778-27-1773


 真宗出雲路派の寺院・城福寺の庫裡に江戸時代中期に造られた庭園であり、城福寺は寛永元(1624)年に寺域を現在地に移したと伝えられている。
庭園は庫裡の南側に位置し、正面の生垣越しに望む文室山などの日野山系の山並みを借景とした枯山水庭園であり、江戸時代中期の作庭手法をよく伝えている。
 書院の南面に低い築山が配されており、中心に立石(本尊石)が据えられている。築山のすそは、平らな石組みで池の汀状を表して、左右の端に立石(神石)が置かれている
前面は、平坦で蘚苔類が広がっており、礼拝石を中央に配し、亀島・鶴島・舟島が置かれている。
 築山の上には、ヒイラギの巨木が植えられている。
 作庭年代を知る資料は少ないものの、江戸時代中期に造られた平庭枯山水様式の好例である。

梅田氏庭園(うめだしていえん)

池田郷の大庄屋を務めた豪族梅田氏の居館の林泉庭園。高尾山・愛宕山を借景にスギ・アカマツ・モミなどの老木が林立し、幽邃な景観を呈している。 室町時代末ごろの特色がよく保存され、この地方における庭園文化の伝播を知るうえで貴重。


文化財種別:名勝 

〒910-2503
福井県今立郡池田町谷口33-8-1
Tel:0778-44-6106


 池田郷の大庄屋を務めた豪族梅田氏の居館の林泉庭園。庭は、前面に曲がりくねった池が造られて、中ほどに沢飛石と自然石の石橋がかけられている。右手奥から引き入れた水路を2筋に分けて中島の左右に落して滝を造っている。正面左には巨石を立てて景色の中心とし、その周辺の要所に石が配されている。流路と池とは石組によって護岸されている。また、建物と池のあいだには大きめの飛石が、広い間隔をとって配置されている。
右手に高い山がそびえ、左手奥には高尾山・愛宕山を借景にスギ、アカマツ、モミなどの老木が林立し、庭園のいたるところがコケに覆われた幽邃な景観となっている。
室町時代末ごろの特色がよく保存され、この地方における庭園文化の伝播を知るうえで貴重であるとされる。

瀧谷寺庭園(たきだんじていえん)

永和元(1375)年に創建された真言宗智山派の寺院の庭園。 庭園は慶長年間から江戸時代中期に築庭されたといわれる。 丘陵の斜面を利用して造られ、四方が正面という珍しい特徴をもっている。


文化財種別:名勝 

〒913-0054
福井県坂井市三国町滝谷1−7−15
Tel:0776-82-0216


 瀧谷寺は南北朝時代の永和元(1375)年に創建された真言宗智山派の寺院で、庭園は本堂より書院にわたって作庭されており、寺院本堂北側の丘陵南斜面を利用した山水式庭園である。
 庭園は、四方が正面という珍しい特徴をもっている。建物前方斜面の裾にあった露岩を削って池を造り出し、建物から池を望むと対岸斜面には、後方にシイノキやモミ、コウヤマキなどの巨樹が茂っており、その手前の斜面にマツの古木が点々と立っている。マツの間にはツツジの低木が植えられ、低く仕立てられている。ほかにも石を立て、灯籠が置かれている。
 瀧谷寺には、鎮守堂など古い建物が残されており、国宝の金銅毛彫宝相華唐草文磬(仏教の鳴器)など、瀧谷寺関連の文献史料や仏像など数多くの文化財が収蔵庫で展示されている。

西福寺書院庭園(さいふくじしょいんていえん)

浄土宗鎮西派の良如上人が開基と伝えられる西福寺の庭園。 築庭の年代は定かではないが、延享4(1747)年再建とされる阿弥陀堂に関連深いことから、庭園の作庭もその頃と考えられる。 極楽浄土を表現したとされる書院庭園は、秋の紅葉の美しさが有名。


文化財種別:名勝 

〒914-0824
福井県敦賀市原13−7
Tel:0770-22-3926

ホームページ:http://www.saifukuji.jp/


 浄土宗鎮西派の良如上人が開基したと伝えられる西福寺の庭園。庭園後背の山の中ほどに窪地があり、花崗岩の巨石が群立し西北方向にはマツが、東北方向にはマツが混生する雑木林が生い茂っている。その所々にはツツジなどの低木とシイノキやヤマモモなどが植えられている。
 山容を背景とし山の麓に池を設けている。池は阿弥陀堂の側面に横長に作られ、池中には中島が3島あり、石橋が架けられている。池の西北部には滝石組にかわる大きな自然石が2石あり、水はそれらの上部に積まれた石垣の上を乗っている樋を通して流入している。水分石はみられない。水は池の東北隅から排されている。
 築庭の年代は定かではないが、延享4(1747)年再建とされる阿弥陀堂に関連深いことから、庭園もその頃の作庭と考えられる。極楽浄土を表現したとされる書院庭園は、秋の紅葉の美しさが有名である。

旧玄成院庭園(きゅうげんじょういんていえん)

享禄4(1531)年管領・細川武蔵守高国が作庭したされる。 天台宗の旧平泉寺の塔頭であった玄成院の庭園で、北陸地方に現存する庭園として最古。 庭全体には200種余のコケが生育し、幽玄な空間を作り出している。


文化財種別:名勝

〒911-0822
福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63
Tel:0779-88-1591


 天台宗の旧平泉寺の塔頭であった玄成院の庭園で、室町時代の享禄4(1531)年に管領・細川武蔵守高国が作庭したとされる。庭は、建物の東側に位置する回遊式枯山水庭園。正面上段に築山が造られ、築山の前面に枯池が配置されている。築山の最も高いところには本尊石が置かれ、本尊石を中心として渦巻状に滝を模した石組が配されている。池の左手奥の石組みは滝を模したもので、枯池の中には鶴島、亀島が置かれ、亀石の近くに石橋が架けられている。庭全体を覆うように200種余のコケが生育し、幽玄な空間を作り出している。また庭園の後方にはスギやモミ、カエデなどの老木が生い茂り、斜面中腹に疎らに立つ若スギと、その木立の間にツツジと数基の石灯籠が立てられて、ひっそりとした趣きのある佇まいとなっている。

永保寺庭園(えいほうじていえん)

多治見市虎渓山町にある永保寺観音堂の南面にひろがる池を主体とした庭園。 中世庭園文化史のうえで最も代表的な作庭家夢窓疎石の作風をよく伝えており、 池畔のいずれに立っても景観はすばらしく、室町時代禅宗寺院の代表的な庭園。


文化財種別:名勝

〒507-0014
岐阜県多治見市虎渓山町1−40
Tel:0572-22-0351


 多治見市虎渓山町にある永保寺観音堂の南面にひろがる池を主体とした庭園。永保寺は正和2(1313)年に夢窓疎石が開いたあと、観音堂の建立に伴って寺域が整備され、庭が築造された。
 寺の中心建築物である観音堂の西に接して、岩山「梵音巌」から、岩壁をつたって滝が落ち、その真下には地形に応じた池が設けられ、池の中には2つの島が置かれている。
 観音堂へ渡る橋「無際橋」は、堂の正面で臥龍池に架けられた虹形の橋で、池を2つに分けている。境内は、北から西にかけて長瀬山の丘陵に囲まれ、南から東は土岐川の流れが屈曲する西岸に接しており、自然地形を取り込んですぐれた景観を作っている。中世庭園文化史のうえで最も代表的な作庭家夢窓疎石の作風をよく伝えており、池畔のいずれに立っても景観はすばらしく、室町時代禅宗寺院の代表的な庭園である。

江馬氏館跡庭園(えましやかたあとていえん)

中世の北飛驒地方を治めていた江馬氏の居館に築かれた庭園遺構。発掘調査の成果に基づき、会所(かいしょ)と塀に囲まれた園池を中心とする庭園空間全体を復元整備したもので、室町時代における庭園文化の地方への伝播を示す重要な事例である。


種別:史跡・名勝

〒506-1121
岐阜県飛騨市神岡町殿573-1

Tel:0578-82-6001

江馬氏の城館跡は、下館(居館)と背後に築かれた高原諏訪城(山城)を中心として、領域内に点在する山城群によって構成され、これらは昭和55年に国の史跡指定を受けている。このうち、下館の庭園区画については、平成29年に国の名勝指定を受けている。

庭園は、発掘調査によって15世紀末から16世紀初頭にかけて完成したものと想定している。会所と土塀に囲まれた空間に景石石組みを伴う不整形の園池が設えられている。枯滝石組みや中島・岩島といった景石群を配し、会所西側に張り出した月見台の正面には洲浜を設けて、多様な意匠と視点を演出している。園池の池底は、透水層から成って枯れ池の意匠を呈している。

庭園の視点場である会所は、往時と同様の庭園景観を楽しむことができる。さらに、詳細な検討によって復元した建物内部の空間は、武家の儀礼や饗応の様子を追体験することが可能となっている。中世の武家文化に触れることができる庭園としても貴重である。

柴屋寺庭園(さいおくじていえん)

柴屋寺は今川氏に仕えた連歌師宗長が晩年に結んだ草庵。その庭園は宗長の自作である。 庭園は昭和11(1936)年に国の名勝・史跡に指定され、次いで昭和31(1956)年に、寺裏の山林や借景として欠かせない天柱山を保護するため、 滝囲いと表門一帯が追加指定された。


文化財種別:史跡・名勝

〒421-0103
静岡県静岡市駿河区丸子3316
Tel:054-259-3686


 柴屋寺は今川氏に仕えた連歌師宗長が晩年に結んだ草庵「柴屋軒」を、今川氏親が寺に改めたと伝えられる。天柱山柴屋寺の別名を吐月峰柴屋寺ともいう。
庭園は宗長の作庭であることが、彼の手記に記されている。本堂の西側は、平地になっており、そこに小さめの池を掘って、東北側に湧き出る清水から引き込んだ水で満たしている。
池畔には、様々な樹木が植栽され、変化に富んだ立石が配置されている。庭の前方、西に聳える天柱山を借景としている。
 宗長が腰かけて昇る月を眺めたという月見石があり、その後ろには、宗長の師である宗祇と宗長の墓が並んでいる。
 庭園は、昭和11(1936)年に史跡・名勝に指定されていたが、「吐月峰」周辺の環境の変化から、寺後方の竹林や、借景にかかせない天柱山を保護するため、昭和31(1956)年に滝囲いと表門一帯が追加指定された。

龍潭寺庭園(りょうたんじていえん)

行基が開いたと伝えられる名刹、龍潭寺本堂の北の庭園。庭園は江戸時代初期、小堀遠州によって作庭されたといわれ、寺院庭園として代表的な庭園。地元で産するチャートを使い、数多くの石組みと築山全体で鶴亀が表現されている


文化財種別:名勝

〒431-2212
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
Tel:053-542-0480

ホームページ:www.ryotanji.com


 奈良時代に行基が開いたと伝えられる名刹、龍潭寺本堂の北にある庭園は、江戸時代初期、小堀遠州によって作庭されたといわれる代表的な寺院庭園である。
 庭を正面から眺めると、まず中央に心字池が造られており、対岸はなだらかな起伏の築山になっている。築山には地元で産出する堆積岩のチャートを使った様々な石組みが配されて、全体で鶴と亀を表している。築山中央の中腹には、守護石が置かれ、池の左右に仁王に見立てた立石「仁王石」が置かれている。池手前の畔には、対岸の守護石に相対するように平らな礼拝石が据えられている。石組みの間には数多くのサツキが植えられ、庭を囲む木々とともに季節ごとに異なった風情を作り出している。龍潭寺には本堂の南面に枯山水の庭園も造られている。こちらは浜名湖を表現した補陀落の庭である。

臨済寺庭園(りんざいじていえん)

臨済宗妙心寺派の禅寺で今川家の菩提寺であった。天正年間に徳川家康が伽藍を再建する際に築庭されたといわれる。賤機山(しずはたやま)の斜面を利用した、3段造の池泉観賞式の庭園。建造物と庭園内は春・秋の年2日、特別公開が行われる以外は非公開。


文化財種別:名勝

〒420-0885
静岡県静岡市葵区大岩町7番1号
Tel:054-245-2740


 臨済寺は、今川義元の兄氏輝の菩提寺で、義元の軍師太原雪斎長老が、大休禅師を迎えて開山した臨済宗妙心寺派の禅寺であり、庭は天正年間に徳川家康が伽藍を再建する際に築庭されたといわれる。寺院背後の山の斜面を利用した、3段造の池泉観賞式の庭園である。
 建物の北側に借景となっている賤機山の山すその斜面を利用して築庭している。崖上からの水を渓谷風に落とし、東側の一段高くなっている大書院の前の池に引き入れている。東側の池から溢れた水は、西側の池へと滝流れとなって池を満たす。
主としてアカマツ、ラカンマキ、ゴヨウマツ、ソテツが植えられ、これら主要木の間に低木のサツキが植えられているほか、岩磐にはイワヒバが群生する。

名古屋城二之丸庭園(なごやじょうにのまるていえん)

17世紀前半、名古屋城築城後しばらくして二之丸御殿の北側に造営された庭園。江戸時代から明治にかけ、改変されたものの、江戸時代の築山や大形の庭石、青石を用いた枯滝石組などが残存する城郭庭園として貴重。


文化財種別:名勝

〒460-0031
愛知県名古屋市中区二の丸1番、2番
Tel:052-231-1700

ホームページ:www.nagoyajo.city.nagoya.jp


 名古屋城内二之丸にある庭園で、最初の築庭後、二度にわたって大きく改変された。最初は二之丸御殿の造営に伴って築庭され、尾張藩初代藩主義直が傾倒していた儒教思想を取り入れた庭園であった。江戸時代はじめの庭の様子を表した絵図には、巨岩や園地に中国風建物をところどころに配した庭の姿が描かれている。
 文政年間(1818~1830)頃に、一橋家から尾張藩を継いだ十代藩主斉朝により、茶席や築山を加えた本格的な和様の回遊式庭園として改修、拡張された。
 明治時代になると陸軍が入り、江戸時代の建物とともに庭園も取り払われたが、庭の中核をなす北西部分は残され、その南側に新たに前庭が整備された。
 昭和28(1953)年、庭の北西部分と前庭が名勝に指定された。その後の発掘調査及び史料調査により、庭園の跡が良好な状態で地下に保存されていることが確認され、平成30(2018)年に庭園のほぼ全域が名勝として追加指定された。
 江戸時代の築山や大形の庭石、青石などを用いた枯滝石組などが残存している。藩主が居住した御殿の庭園としては日本一の規模である。

旧龍性院庭園(きゅうりゅうしょういん)

 


文化財種別:名勝 

〒471-0361
愛知県豊田市猿投町瀬戸田
(旧龍性院庭園は、一般公開はしていません)

旧龍性院庭園は、愛知県豊田市の猿投山(標高629m)の南麓に位置します。庭園の造られた龍性院は、式内社である猿投神社の神宮寺の一つで、14世紀開創と考えられています。廃仏毀釈により慶応4年(1868)に廃寺となりましたが、庭園は破却を免れました。 

庭園の造営についての資料は残されていませんが、記録類から18世紀末には庭園の存在がうかがえます。また、1830年から60年頃の制作とされる『龍性院家相図』には、客殿等の建築物と庭園が描かれますが、発掘調査から客殿等の建築は17世紀前半と推察され、建築物との位置関係から庭園もその頃に造られたと考えられます。 

庭園は東側にあった客殿から観賞するよう造られています。右奥に最も大きな築山を築き、その裾付近に滝が造られます。築山は左奥にもあり、右奥と左奥の築山の間をなだらかな峰が結びます。『龍性院家相図』には左奥の築山の上に草庵風の建物が描かれ、その礎石と考えられる石材が残ります。滝から続く池は左右に長く、左端で手前に直角に折れ曲がります。池には出島、岬等が造られ、石橋が架かり、護岸の石組は随所に大振りの石を配置しながら入り組んだ曲線を描きます。『龍性院家相図』では池が青く描かれますが、水は涸れており、取水及び排水の経路は不明です。植栽は、当時のものは残されていませんが、『龍性院家相図』には、マツ類、円柱状・四角柱状・半球状に刈り込んだ中低木類が見られます。 

旧諸戸氏庭園(きゅうもろとしていえん)

加路戸新田(現在の三重県桑名郡木曽岬町)で、代々庄屋を務めた諸戸氏の二代目清六の邸宅として1914年に完成した。東西に広がる構成で芝生広場、園池、築山が奥行きをなして開放的な印象を与える。近代において地方の豪商が築造した庭園として学術的価値はきわめて高い。


文化財種別:名勝 

〒511-0009
三重県桑名市大字桑名663−5
Tel:0594-24-4466

ホームページ:www.intsurf.ne.jp/~rokkam/


 加路戸新田(現在の三重県桑名郡木曽岬町)で、代々庄屋を務めた諸戸氏の二代目清六の邸宅として1914年に完成した。屋敷は桑名市北東部を南東に流れる揖斐川の右岸にあり、土手沿いの長屋門をくぐって左手に曲がって伸びる通路を進むと、正面にジョサイア・コンドル設計の洋館と、その西側に繋がる和館からなる特徴的な建物があり、建物の南面に主庭園が広がる。庭園は、東西に広がる構成で芝生広場、園池、築山が奥行きをなして開放的な印象を与える。
 和館の後ろには内庭があり、もとは茶室と露地があった。茶室は昭和初期に移築され、現在露地の形態は留めていないものの、その遺構は認められる。近代において地方の豪商が築造した庭園として学術的価値はきわめて高い。

諸戸氏庭園(もろとしていえん)

三重県桑名市の米穀商であり、1代で富を築いた初代諸戸清六が江戸時代に作られた庭園を買い取り、明治時代の1887年頃に築造した。庭園の池は揖斐川の水を濠から入れており、揖斐川の干満に応じて景観が変化する「潮入りの池」となっている。


文化財種別:名勝

〒511-0005
三重県桑名市太一丸18番地
Tel:0594-25-1004

ホームページ:www.moroto.jp


 桑名市北東部を南西に流れる揖斐川右岸にあり、室町時代には邸宅・庭園があったといわれる土地を江戸時代の貞享3(1686)年に豪商山田彦左衛門が買い求めて作った庭園(旧山田氏林泉)を、明治17(1884)年に初代諸戸清六が買取り御殿と庭園を築造した。
 庭園は主に主屋前にある旧山田氏林泉と、御殿広間前面にある御殿庭園の2つの部分からなり、庭園の西辺と北辺にはレンガ造の濠がめぐらされている。
 旧山田氏林泉の部分は、東西に長く浅い菖蒲池を中心とする回遊式庭園である。池の西端には江戸時代以来の草庵推敲亭が建っており、古くからの様子を留めている。春には藤、平戸つつじ、花菖蒲などの花が次々と咲き、情感豊かな庭園である。
 御殿庭園は、広間座敷から観賞するための庭で、高さ約1.5メートル上から庭園を見下ろすダイナミックな構成となっている。広間前の池を中心として、荒磯あるいは深山を思わせる青石の石組と、池の水面を這うように松が伸び、幽玄な趣がある。
 江戸時代の旧山田氏林泉の景色を残しつつ、明治時代に更に庭園を加え、主屋、御殿、玉突場、茶室伴松軒など用途に応じた建物を配した。近代の地方の豪商の姿を今なおはっきりと伝える庭園として貴重である。

多賀大社庭園(たがたいしゃていえん)

安土桃山時代に作庭された庭園で奥書院と呼ばれる書院造りの建物から眺めるようにつくられている。大きな木々と築山、大小さまざまな自然石が見事に配され、美しい曲線で表された石組み護岸の池に鶴島、亀島が浮かぶ。


文化財種別:名勝 

〒522-0341
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
Tel:0749-48-1101

ホームページ:www.tagataisya.or.jp/about/


 安土桃山時代に作庭された庭園で奥書院と呼ばれる書院造りの建物から眺めるようにつくられている池泉鑑賞式庭園である。境内を囲む鎮守の森の大きな木々と築山、大小さまざまな自然石が見事に配され、美しい曲線で表された石組み護岸の池に鶴島、亀島が浮かぶ。庭園の中央に不動三尊石、右隅に枯滝、その下には自然石の石橋が渡されている。書院東側に続く庭にも趣のある石がいくつか配され、苔の緑との対照が鮮やか。
 奥書院庭園の作庭は、豊臣秀吉が母大政所の病気治癒を祈願し快癒延命が成就した礼として天正16(1588)年に寄進した1万石によって成されたといわれている。

青岸寺庭園(せいがんじていえん)

曹洞宗の寺院、青岸寺の庭園。江戸時代初期に三世興欣が、彦根城の玄宮園、楽々園を築いた香取氏に作庭させたとされる。本堂裏手にあり、うっそうと茂る裏山を背景に、山腹を利用して築かれた庭園。


文化財種別:名勝 

〒521-0012
滋賀県米原市米原669
Tel:0749-52-0463

ホームページ:www.seiganji.org/


 曹洞宗の寺院、青岸寺の庭園。南北朝時代の初め(延文年間)に、近江源氏の佐々木京極道誉が自ら書写した法華経八巻を納めて米泉寺を建てたのがはじまりである。その後、永正年間の戦火により寺院のほとんどを焼失し、150年余りを経た江戸時代、慶安3(1650)年に再興され青岸寺となった。
 庭園は本堂裏手にあり、うっそうと茂る裏山を背景に、山腹を利用して築かれており、太尾山山麓の地形を利用した回遊式枯山水庭園で、空池を設け、石橋を架けて蓬莱島を作り、右手奥には枯滝を組んでいる。庫裏の前に建つ石灯籠は茶人好みの寄せ灯籠で庭に一段の景を添える。江戸時代初期に三世興欣和尚が、彦根城の玄宮園、楽々園を築いた香取氏に命じて延宝6(1678)年に作庭させたとされる。
青岸寺庭園では、枯山水の流れや池に小石や白砂を用いるかわりにスギゴケを用いて、水の流れが表現されており、雨のあとはスギゴケに染み込んだ水が伏流水のように湧いて出て本物の池へと姿を変える。そのため雨上がりの景色は格別となる。

光浄院庭園(こうじょういんていえん)

三井寺山内塔頭寺院のひとつ光浄院の庭園。各所にツツジ、サツキが密植され、山腹にはスギ・ヒノキ・マツなどが生い茂る。小規模ながら奥行のある味わい深い構成は近江の代表的な庭園といわれている。


文化財種別:史跡・名勝

〒520-0036
滋賀県大津市園城寺町246
Tel:077-522-2238

ホームページ:www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


 三井寺山内塔頭寺院のひとつ光浄院の庭園。築造された年代は明確ではないが、客殿が建てられた慶長6(1601)年頃に造られたとみられる。
 池泉観賞式の庭園は、客殿と一体化した構成で、客殿南縁の柱が護岸の石の上に立つため、客殿の縁の直下から池となり、足もと近くまで水が湛えられ、池上建築に似た趣をみせている。
池は東西に長く続き、亀島に自然石の橋が架けられ、対岸の古滝を2個の立石、池中の夜泊石を3個の巨石から作っており、池周辺を固める石組は、自然石が選ばれて使われている。
 池の西南方は急傾斜地となっており、山腹にはスギ・ヒノキ・マツなどが生い茂り、各所にツツジ、サツキが密植されている。
小規模ながら奥行のある味わい深い構成は、近江の代表的な庭園といわれている。

善法院庭園(ぜんぽういんていえん)

築庭の年代は明確ではないが、江戸時代初期といわれる。1941年の集中豪雨による山津波で土砂に埋没したが、近年の復興整備による発掘調査でその全貌が明らかとなった。関連する建築物は現存しないが、庭園はかつての様子がよく保存されている。


文化財種別:史跡・名勝

〒520-0036
滋賀県大津市園城寺町246
Tel:077-522-2238

ホームページ:www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


 善法院は三井寺の6碩室の子院。築庭の年代は明確ではないが、江戸時代初期といわれる。庭園は昭和9(1934)年に国の名勝・史跡に指定されたが、昭和16(1941)年の集中豪雨による山津波で土砂に埋没した。
しかし、庭園研究の大家・重森三玲による実測図が残されていたことと、林学者で造園の研究者の岡崎文彬らの指導のもと発掘調査が実施され、その全貌が明らかにされた。関連する建築物は現存しないが、庭園の池汀や石組みなどは保存されている。
 大津市歴史博物館のデータベースの記載によれば、書院の前に2つの池があり、中島や石橋、巨石による石組みなど、詳しい地割が判明していることがわかる。しかし、書院、庭園ともいまだ復元はされていない。

兵主神社庭園(ひょうずじんじゃていえん)

兵主神社本殿の南側、北に面して築造された庭園。1953年に国の名勝指定を受けた際には、鎌倉時代中期から末期のものと考えられていたが、その後に行われた修復整備事業の平安時代に特徴的な遺構が発見され、平安時代後期から末期にかけての作庭と判明した


文化財種別:名勝

〒520-2424
滋賀県野洲市五条566
Tel:077-589-2072


 兵主神社本殿の南側、北に面して築造された池泉回遊式庭園であり、心字形の池には、中島が置かれ石橋が架けられている。中島には祠があり、ほかにも出島や築山が築かれるなど、変化に富んでいる。
 近年の修復整備事業の際に池の水を抜いて発掘調査が行われ、平安時代に特徴的な「州浜」の遺構が発見された。作庭時期は鎌倉時代中期から末期のものと考えられていたが、遺構が発見されたことにより、平安時代後期から末期にかけての作庭と判明した。
 庭一面をスギゴケやハイゴケのみずみずしい緑が彩っており、春はツツジ、初夏は新緑、梅雨は菖蒲、秋はモミジ、冬は雪景色と四季折々に美しい姿がみられる。

玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)

玄宮園と楽々園とより成り彦根城の北東、内堀と昔の内湖との間に位置する。江戸時代、延宝年間の築造と伝えられている。彦根城天守や茂った木々の美しい背景を借景とした景観とよく調和した優秀な大名庭園。


文化財種別:名勝(特別史跡)

〒522-0061
滋賀県彦根市金亀町3番地
Tel:0749-22-2742
(彦根城運営管理センター)


 回遊式の玄宮園と御殿の楽々園(槻御殿)から成り彦根城の北東、内堀と昔の内湖との間に位置する。江戸時代前期、延宝年間の築造と伝えられている。
 玄宮園には大池泉が穿たれ、元島、新島など4個の中島を置かれている。そして東部から北部にかけて築山が築かれて、園路がめぐらされている。園の主景は、巨石を組んだ元島とこれに相対して池に臨んで建てられた八景亭であり、庭園北部からは彦根城の天守とその樹林が背景となった美しい景観が眺められる。
 文化年間に槻御殿を増築し、玄宮園の一部を修補して奥向書院に伴う庭とした。楽々園には滝と流れの石組みが造られており、現在は枯山水となっているが、往時は導水施設が備えられ、給水されていた。

金剛輪寺明壽院庭園(こんごうりんじみょうじゅいんていえん)

天台宗の古刹、金剛輪寺の本坊である明壽院の庭園。南庭、東庭、北庭の三区画が心字池で結ばれ、それぞれ桃山時代から江戸時代初期、中期にかけて作庭されたと考えられる。


文化財種別:名勝

〒529-1202
滋賀県愛荘町松尾寺874
Tel:0749-37-3211

ホームページ:http://www.kongourinji.jp/

 明壽院庭園は、南北およそ70メートルにわたり書院から山裾まで15メートルの間を折れ曲がりながら広がっていて、園内には護摩堂と茶室水雲閣がある。南庭は、明壽院の中門を入った正面にある緩やかな山辺を利用し、池の中央に板石三枚を使って巧みに橋を架け、その先には中世の宝篋印塔が配される。池の左上に建つ護摩堂は正徳元年(1711)に建立された。東庭は書院内仏殿の正面に広がり、山肌を巧みに利用した本庭園の中心である。正面に豪快な滝石組を配し、池には中島が作られる。その右側には池に高く張り出した茶室水雲閣が、天保年間に建てられて以来の優美な姿を見せている。北庭は東庭からさらに奥に向かって広がる位置にあり、滝石組の設けられた池には、悩める衆生を迷いの世界である此岸から、仏の覚りの世界である彼岸へ導き渡すかのように、舟石が配されている。また、植栽されたサツキやカエデ等の美しさとは別に、庭園全域にわたって上部に屹立するスギやヒノキ等の巨木群が、山岳密教寺院の厳粛かつ神秘的な雰囲気を漂わせている。

普門寺庭園(ふもんじていえん)

江戸時代初期、正保年間の寺観整備にともなって作庭されたと推定されている。阿武山を借景にした池泉式枯山水庭園で、小堀遠州の弟子、玉淵坊によって築庭されたといわれる。庭園は方丈の西側北寄りに位置し、桂離宮の石組が取り入れられている。


文化財種別:名勝

〒569-0814
大阪府高槻市富田町4−10−10
Tel:072-694-2093


 普門寺は、南北朝時代、明徳元(1390)年に蘭渓道隆のながれをくむ設巌和尚によって開創された禅寺で、江戸時代になると妙心寺派に移り、京都の龍安寺の末寺となった。明治時代の廃仏毀釈、戦後の農地解放で、現在の本照寺、三輪神社、旧富田小学校まであった敷地は減少し寺は荒廃するが、昭和末期に新たに住職を迎え復興した。
庭園は江戸時代初期、正保年間の寺観整備にともなって作庭されたと推定されている。阿武山を借景にした池泉式枯山水庭園で、小堀遠州の弟子、玉淵坊によって築庭されたといわれる。
 庭園の地形には多少の起伏があり、低い所を水面に、やや小高くなっている所を岸あるいは島に見立てて、要所に石を組み、石橋が架けられている。

平等院庭園(びょうどういんていえん)

平安時代中期の阿弥陀堂と一体になった最古の浄土建築と浄土庭園。当時の貴族たちが希求した極楽浄土の光景を再現している。後年、川の氾濫対策のため堤防が築造されるなど、作庭当時の姿からは一変しているものの、周辺の景観はいまなお昔の風情を残している。


文化財種別:史跡・名勝

〒611-0021
京都府宇治市宇治蓮華116
Tel:0774-21-2861


 平等院は、藤原頼通によって宇治川の中流、宇治橋南東の河畔に建てられた寺院。平安時代の中頃は、日本独自の文化が熟成していくとともに、「末法思想」も広く信じられるようになっていく時代であり、そのような風潮にあって当時の貴族たちは、極楽浄土の世界を希求したといわれる。そのような時代に造られた庭園で、最古の浄土庭園である。
鳳凰堂やそれを取り囲む阿字池は、極楽の宝池を模したもので、その美しい姿が水面に映る様子は、現世に極楽浄土をあらわしているとされる。春はサクラからツツジ、フジが咲き、夏はサルスベリと池のスイレン、秋はモミジ、冬はサザンカにツバキが咲き、四季折々の景色が宇治川の清流や背景の山々を借景に美しく広がる。
後年、川の氾濫対策のため堤防が築造されるなど、作庭当時の姿からは一変しているものの、周辺の景観はいまなお昔の風情を残している。

大沢池附名古曽滝跡(おおさわいけつけたりなこそのたきあと)

大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人口の林泉(林や泉水などのある庭園)。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。


文化財種別:名勝

〒616-8411
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
Tel:075-871-0071(大覚寺代表)
Tel:075-871-0191(管財課直通)

ホームページ:https://www.daikakuji.or.jp/precincts/


 平安時代前期、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824)に造営された離宮「嵯峨院」の庭園に池と滝が造られた。中国の「洞庭湖」を模して造られたところから庭湖とも呼ばれている。
池には天神島、菊が島と庭湖石があり、池の北に滝が造られている。発掘調査から築庭当初は、かなりの水量があったと推定されているが、藤原公任(966〜1041)が詠んだ歌に「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」とあるように、平安中期には既に水は枯れていたことが推察できる。
池の畔には、弘法大師が離宮の鎮守として勧請したと伝えられる五社明神が建っている。
多くの桜が植えられた花の名所であり、また月の名所としても名高く、春には花見に、秋には月見に多くの人が訪れる。

妙心寺庭園(みょうじんじていえん)

江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、1965年に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。


文化財種別:史跡・名勝

〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町1
Tel:075-461-5226


 妙心寺は、臨済宗妙心寺派大本山の寺院であり、庭園は江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、近代に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。
 方丈庭園の西側の部分は、室町時代の絵師狩野元信の作であると伝えられ、「元信の庭」と称されている。元信は狩野派の絵画様式の確立者といわれている。
 余香苑は、もとは方丈庭園の背景となっていた竹林があったところで、昭和30年代に竹林が寿命で枯死したため、昭和40(1965)年に新たに作庭された。作庭は、庭園研究家であった中根金作氏の設計、施工で敷地の左右に「陽の庭」、「陰の庭」と名付けられた枯山水の庭が作られている。

玉鳳院庭園(ぎょくほういんていえん)

徳川中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ南庭、山岳、風水泉の3つの庭がある。南庭は一面に白砂が敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが列植されている。山岳の庭と風水泉の庭はともに石組み庭石が巧みに配され、清雅の趣がある。


文化財種別:史跡・名勝

〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町60
Tel:075-461-5226


 臨済宗妙心寺派の大本山の46ある塔頭のうち、最初に建立された寺院で、花園法皇によって建立され、玉鳳禅宮とも称される。表門を入ると正面に庫裏があり、方丈と開山堂(妙心寺の開祖、関山慧玄の遺骸が葬られている堂)が渡り廊下で結ばれ、渡り廊下の北と南に桃山時代の様式の庭園が造られている。
庭園は、江戸時代中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ「南庭」、「鶏足嶺」、「風水泉」の3つの庭がある。
 「南庭」は、白砂が一面に敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが植栽されている。
 「鶏足嶺」の庭は、開山堂の東に築山を築いて山岳風の石組みがされている。「風水泉」の庭は、北側の庭で、枯れ滝、蓬莱石の石組み、飛び石が配され、その中に風水泉と呼ばれる井戸と棗形手水鉢が置かれている。「鶏足嶺」の庭と「風水泉」の庭はともに石組みが巧みに配置された庭となっている。

不審菴(表千家)庭園(ふしんあん(おもてせんけ)ていえん)

茶道の三千家のうちの表千家の茶庭(露地)。西側の外露地、残月亭前の露地、祖堂前の露地、不審菴の内露地から成る。このうち不審菴の内露地は最奥で残月亭、祖堂前の広い露地から梅見門をくぐって入る。広くない内露地でありながら深山の静けさを作り出している。


文化財種別:名勝 

〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町597
Tel:075-432-2195


 茶道の三千家のうちの表千家の茶庭(露地)。西側の外露地、残月亭前の露地、祖堂前の露地、不審菴の内露地から成る。
 西側の外露地を通り、露地口から中へ入り「中潜り」を抜けると、右に祖堂へと入る萱門、左には残月亭へつながる飛び石がつづいている。祖堂の前には、蹲踞や空堀などが設けられた広い路地が造られている。
かわって萱門の手前を左に飛び石を進むと、残月亭に至る。残月亭の右手に置かれた井戸や巧みに配置された飛び石、梅見門と程よい植え込みで造られた露地を見ることができる。
 梅見門を潜ると、不審菴の内露地にようやく入ることになる。内露地には右に内腰掛、その傍らに砂雪隠、蹲踞、小さい飛石が配され、躙口へと導く。狭いながら奥深い山を感じさせ、静かな空間を作り上げている。
代々受け継がれていくあいだに、茶室や稽古場などの建物が移築や新築され、そのたびに露地にも手が加えられてきたため、複雑な構成の露地に発展してきた。

今日庵(裏千家)庭園(こんにちあん(うらせんけ)ていえん)

茶道の三千家のうちの裏千家の茶庭(露地)。千家3代千宗旦が隠居屋敷に建てた茶室が始まり。
兜門をくぐり大玄関から腰掛待合、中門へと露地を通り抜けて茶室へと至る。中門は景色を持たせない外露地と、幽玄の趣を盛り上げた内露地とに区別する境界となっている。


文化財種別:名勝

〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613
Tel:075-431-3111


 今日庵は、「又隠」とともに裏千家の中心をなす茶室であり、千宗旦が構えた隠居屋敷の中に、2畳の茶室を造ったのがはじまり。
 露地とは、茶室の庭のことで、兜門をくぐり大玄関から腰掛待合、中門へと露地を通り抜けて茶室に至る。
中門は極めて簡素に造られているが、中門を境界として、景色を持たせない外露地と、幽玄の趣を盛り上げた内露地とに区別する露地の構成上、大きな意味を持っている。
外露地は、付属物を省略し常緑樹の緑と、木洩れ日の明暗だけが変化する要素となっている。
内露地は、亭主に迎えられて茶室へ入るまでに通る露地で、席入する客が手水を使う四方仏の蹲踞は、苔むして丸味を帯びた仏体の輪郭も定かではなく、幽玄の趣を盛りあげたつくりとなっている。

本願寺滴翠園(ほんがんじてきすいえん)

飛雲閣の前庭で、飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。飛雲閣は三層の楼閣であって最下層に設けられた船入りによって池に通じるようになっている。池を中心に亭舎を配置し、ツツジや梅等の花木を植え、大石を用いた石組は秀逸。


文化財種別:名勝

〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る
Tel:075-371-5181


 滴翠園は、浄土真宗本願寺派の本山である本願寺境内の東南隅に建つ飛雲閣の前庭で、飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。飛雲閣は、豊臣秀吉の聚楽第の遺構と伝えられ、金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つとされている。建物は三層の楼閣で、最下層に設けられた船入りによって池に通じるようになっている。
 庭園は、飛雲閣の北側から西側にかけて建物をめぐるように広い池がつくられている。池の形は中央がくびれた形状になっており、そこに石橋が架けられており、この橋を渡って飛雲閣へとたどり着く。飛雲閣から池を望むと、右手に木の間越しに鐘楼が見え、ツツジやウメなどの花木が植えられ、大きな石組みが配されている。池が建物直下まで迫っており、この池に映る建物の形が飛ぶ雲のようであることから「飛雲閣」と名付けられたと伝える。通常、非公開である。

渉成園(東本願寺)(しょうせいえん(ほんがんじ))

渉成園の名称は、中国の詩人陶淵明が故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節から採られたもの。敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったため百間屋敷とも、カラタチ(枳殻)を植えていたために枳殻邸(きこくてい)ともいわれた。


文化財種別:名勝

〒600-8190
京都府京都市下京区珠数屋町通間之町東入東玉水町
Tel:075-371-9210(本廟部 参拝接待所)


 寛永18(1641)年、東本願寺第13代宣如上人の時に、三代将軍・徳川家光から寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされた。
 渉成園の名称は、中国の詩人陶淵明が故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節から採られたもので、池岸の水面に乗り出して設けられた茶亭や、屋根のついた橋(廊橋)など、随所に中国的な雰囲気が見られる。
敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったため百間屋敷とも、カラタチ(枳殻)を植えていたために枳殻邸ともいわれた。庭園には四季折々の花が咲きほこり、変化に富んだ景観は「十三景」と高く評価されている。
 庭の中をめぐって観賞する池泉回遊式庭園ではあるが、池の外周を一周できる作りにはなっていない。

聚光院庭園(じゅこういんていえん)

臨済宗大徳寺派に属する寺院・聚光院は茶道の三千家ゆかりの寺。その方丈の南面にある枯山水の庭園は、千利休の作庭と伝えられ約50坪の広さを持つ。据えられた石はすべて小ぶりであるが、要所に立石を据えて景色に変化を与えている。


文化財種別:名勝

〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町58
Tel:075-492-6880


 聚光院は、永禄9(1566)年三好義嗣が父長慶の菩提をとむらうため、大徳寺百七世笑嶺宗きんを招いて建立した臨済宗大徳寺派に属する寺院で、笑嶺和尚に参禅した千利休が檀家となって以来、茶道三千家の菩提所となっている。境内には利休の墓を中心に三千家歴代の墓所がある。
庭園は、方丈の南面にある枯山水庭園で、千利休の作庭と伝えられ約50坪の広さを持つ。石組の多さから「百積の庭」と称されている。
一面の苔で被覆された庭は生垣で背景を区切り、生垣に沿って東から西に二群に分けて石組みが配置されている。その中央に石塙でわずかに小高くされている。石はすべて小ぶりなものが使われており、要所に立石が据えられて、景色に変化を加えている。

照福寺庭園(しょうふくじていえん)

照福寺本堂及び書院の北側にある含勝庭と呼ばれる庭園。「含勝堂仮山記」という園記が寺に残っており、天保14(1843)年、住職仙裔和尚の自作であることがわかっている。綾部地方には古庭園がまれであることから、作者・作庭年代が明白な点で価値が認められている。


文化財種別:名勝

〒629-1263
京都府綾部市鷹栖町小丸山33
Tel:0773-46-0185


 照福寺本堂及び書院の北側にある含勝庭と呼ばれる庭園。「含勝堂仮山記」という園記が寺に残っており、天保14(1843)年住職仙裔和尚の自作であることがわかっている。
 寺の北に由良川が流れ、遠山を望み、背後には山が控える景勝地にある。
庭は、正面左手奥に築山が配され、守護石が立てられている。その脇に石を組んだ枯滝が置かれている。築山はなだらかに右手に延びて、その正面中央にも立石が据えられ、枯滝が設けられ、石橋が架けられている。石組には、地元の山石が利用されている。築山の下には枯池が配され、築山の山すそを、岬のように手前に突出させて島のように見せている。池をめぐって打たれた飛び石は本堂と書院をつないでいる。
綾部地方には古庭園がまれであることから、作者・作庭年代が明白な点で価値が高い。

南禅寺方丈庭園(なんぜんじほうじょうていえん)

南禅寺は鎌倉時代の正応4(1291)年に創建された寺で、住持の居所である方丈の庭園。庭園は江戸時代初期の小堀遠州の作と伝えられている。築山や巨石を立てて仏教的世界観を表現した日本庭園とは違い、石を寝かして配置した平庭の枯山水庭園で、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれている。


文化財種別:名勝

〒606−8435
京都府京都市左京区南禅寺福地町86 
Tel:075-771-0365


 南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山で、方丈は慶長16(1611)年に女院御所の旧殿を移築したもので、庭園も同じころに作られたものと考えられている。
 庭園は小堀遠州の作と伝えられており、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園で、方丈と築地塀で整然とした長方形に区画され白砂が敷かれた平庭である。方丈から見た庭の左奥に主石を置き、さらに塀沿いに右へ数個の石が配されて、方丈の前面と右手は白砂の広い空間が広がっている。景石の間にモミジ、マツ、モチノキ、ツバキ、丸く刈り込まれたサツキなどが植えられている。白砂、庭石、庭樹、築地塀が作り出す景色が、背景の松林や山と一体となって調和のとれた庭園となっている。築地塀の白壁には薄青色をした5本の定規筋が水平に引かれている。定規筋は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院であることの証で、筋の数が寺の格式を表しており、5本線は最高格式とされる。

旧大乗院庭園(きゅうだいじょういんていえん)

創設は平安時代のようであるが、室町時代中期に大乘院の門跡・尋尊が善阿彌に依頼して修補している。明治以後、荒廃したが全体としては室町時代の地割を残している。優秀な作庭が行われた室町時代のもっとも優秀な山水河原者・善阿彌の作庭遺構。


文化財種別:名勝

〒630-8301
奈良県奈良市高畑町1083-1
Tel:0742-24-0808

ホームページ:http://www.national-trust.or.jp/protection/index.php?c=protection_view&pk=1491202122


 大乗院は興福寺の門跡寺院で創設は平安時代とされている。室町時代の中頃に、それまでの徳政一揆で荒廃した庭園を修復するため、善阿彌とその子が、大乘院の門跡・尋尊に招かれて、修補を行った。善阿彌は時の将軍、足利義政の同朋衆(将軍や大名に近侍して茶事や芸能、雑務などの仕事に就いた者)で作庭の名手であったという。
往時は東大池と西小池があり、東大池には南中島と北中島が作られ、これらが庭園の主要な地割となっていたが、明治以降に荒廃して西小池と南中島は、現在見ることはできない。しかし、全体としては室町時代の地割を残しており、今も四季折々に変化する花木が庭園を彩っている。作庭が行われた室町時代のもっとも優秀な山水河原者・善阿彌の作庭遺構である。

依水園(いすいえん)

前園は江戸時代(延宝年間)に、後園は明治時代に作庭されており、創始を異にする二つの庭園を水流でつなぎ、あわせて依水園と称する。東大寺南大門の屋根や若草山、春日山、御蓋山の三山を借景として取り入れたすぐれた庭園。


文化財種別:名勝

〒630-8208
奈良県奈良市水門町74
Tel:0742-25-0781

ホームページ:www.isuien.or.jp


 東大寺南大門の西、吉城川の北側にある。前園は江戸時代(延宝年間)に、後園は明治時代に作庭された。創建時を異にする二つの庭園は水の流れでつながり、併せて「依水園」と称される。
 前園は、奈良の晒業者、清須美氏の別業三秀園の遺構を整備したもので、後園は奈良の富商、関藤次郎のときに作られ、若草山、東大寺南大門、春日山や御蓋山を借景としている。ほかに飛石、沢渡には伽藍石、挽臼石などが用いられ、サツキやオカメザサなどが植栽されるなど、全般に明治らしい特色のよく表れた庭園となっている。二つの庭園からなる依水園は奈良を代表する池泉回遊式庭園である。
 なお、園内には「寧楽美術館」があり、古代中国の青銅器や朝鮮の高麗・李朝の磁器、日本の茶道具などが所蔵、展示されている。

奈良公園(ならこうえん)

明治13年に興福寺の元境内と春日大社の約43,000坪の土地を区分して公園とし奈良県が管理を始めた。後に周辺の山林と東大寺手向山神社寺の境内地を編入し、さらに風致上必要な民有地を買い取り、歴史公園とも称される奈良公園となった。


文化財種別:名勝

〒630-8114
奈良県奈良市芝辻町543
Tel:0742-22-0375


 奈良公園は太政官布達にもとづき、明治13(1880)年に興福寺境内および春日野などの約15haを公園として設置したことに始まる。その後、若草山、春日山などを加えて、奈良県が都市公園として整備してきた。文化財としての名勝奈良公園は、猿沢池、鷺池、春日野および若草山などを含む県立都市公園としての奈良公園に、東大寺と興福寺の境内地も加えた524haの広さで大正11(1922)年に指定された。公園内には春日大社の神使とされる1200頭の野生の鹿が生息し、国の天然記念物として保護されている。春日野の広大な芝生は、鹿が食べたことで成り立っている独特の風景である。毎年1月に行われる若草山の山焼きは、若草山に火をつけて山全体を燃やす早春を告げる奈良の伝統行事となっている。若草山の隣の春日山は太古から伐採されることなく残されてきた原始林に覆われており、特別天然記念物春日山原始林に指定されている。鷺池に浮かぶ浮見堂、猿沢池、興福寺の五重塔など歴史文化と自然を織り交ぜた風景美が随所に見られる。

天徳院庭園(てんとくいんていえん)

天徳院客殿の南に位置する。池を中心としておだやかな意匠に構成されている。池中に鶴島と亀島の中島を置き石橋を架けてこれらをつないでいる。対岸は自然の傾斜地を築山として扱い、池畔左手に枯れ滝石組を設けて庭の主景としている。


文化財種別:名勝

〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町高野山370
Tel:0736-56-2714


 天徳院は、江戸時代初期の元和元(1615)年に、加賀藩主前田利常によって創建されたといわれ、作庭も同時期であると考えられている。幕末の元治元(1864)年に、園内の建物いっさいが焼失してしまうが、往時の地割や石組みは残されている。
 庭園は天徳院客殿の南にあり、池を中心としておだやかな意匠に構成されている。池中に鶴島と亀島の中島を置き石橋を架けて、これらをつないでいる。対岸は自然の傾斜地を築山として扱い、池畔左手に枯れ滝石組を設けて庭の主景としている。後方には、スギ、マツ、サワラ、イチイなどの針葉樹の高木が木立をつくり、山麓から池の辺にかけては、低く刈りこまれたアセビ・シャクナゲ・イヌツゲ・ツツジなどが植えられている。
 石組みなどに少なからず、荒廃の様子が見られるが、後世に補修された形跡がなく、かえって往時の様子が残されている。

粉河寺庭園(こかわでらていえん)

主として緑泥片岩に属する巨大な岩石が、多数かつ変化に富む手法で堅固に、美しく組まれた日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園。石の間をツツジでうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどが植えられている。


文化財種別:名勝

〒649-6531
和歌山県紀の川市粉河2787
Tel:0736-73-4830

ホームページ:www.kokawadera.org


 粉河寺は、西国巡礼の霊場の一つとして知られる。西国巡礼の道は、わが国最古の巡礼道であり、近畿・東海の2府5県にまたがる観音さまの霊場をめぐる道程である。
 庭園は本堂と山門との間に造られた桃山時代の石の庭で、山門から本堂までの高低差、約3mを結ぶ石段の両側に造られており、土留め石垣としての機能も持っている。主として緑泥片岩に属する巨大な岩石が、変化に富んだ手法で堅固に、かつ美しく組まれている。多彩に組まれた石組みの間は、刈込まれたツツジが植えられ、さらにその間にビャクシン、シダレザクラ、ソテツなどを植え飾っている。石組全体の構成は向かって左手に重点が置かれ、枯れ滝や石橋、鶴亀の島などが表現されている。
 多彩な石組みを持つ日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園である。

根来寺庭園(ねごろじていえん)

奥書院を北から西、南へと囲む平庭と聖天堂南面の聖天池から成る。聖天池の池辺一帯にはマツ・カエデなどが植えられ風致に富む。奥書院は寛政12(1800)年 に紀州徳川家の吹上御殿が移築され、翌享和元年に落成するが、これに伴い作庭された。


文化財種別:名勝

〒649-6202
和歌山県岩出市根来2286
Tel:0736-62-1144

ホームページ:www.negoroji.org


 奥書院を北から西、南へと囲む平庭と聖天堂南面の聖天池から成る。
奥書院の北および西に面するものは築山泉水庭で、裏山の裾に池をほり、北正面に滝頭石組を高く積み重ねて滝を三段に落す。池には大小2つの島が低く築かれ、2枚の石橋が架かる。またほかに浮島を据え、島と池の汀辺は主に平石による石組で護岸されている。
 奥書院の南庭は東南隅に立石を組み、景石が配され、アカマツやツツジ等が植えられた平庭となっている。
 聖天堂南面の聖天池は、中央に島があって弁戝天を祀り、附近に若干の石組が残っている。池の周辺一帯にマツやカエデなどが植えられ風致に富んだ景色となっている。

養翠園(ようすいえん)

和歌山市の西南方、大浦湾に接する紀州藩水軒御用地の一部に、文政年間、第10代紀州藩主徳川治宝が営んだ別邸。クロマツを主にアカマツ、ツバキ、モクセイ、ウバメガシ等が植栽された約33,000㎡におよぶ大名庭園。庭園には海水を取り入れた汐入りの池がある。


文化財種別:名勝

〒641-0036
和歌山県和歌山市西浜1164
Tel:073-444-1430

ホームページ:www2.odn.ne.jp/cap99810/index.htm


 和歌山市の西南方、大浦湾に接する紀州藩水軒御用地の一部に、文政年間、第10代紀州藩主徳川治宝が営んだ別邸で、庭園の広さは33,000㎡におよぶ。
 庭園の地割の主体は東西に長く広い池で、池の西部に書院や茶席が配置されている。池は海水を取り入れた汐入りの池で、ゆるやかに屈曲し、池の西北隅に立石を置き、中央からやや東寄りに中島が置かれている。中島には弁財天、稲荷社が祀られており、中島へは北岸から鍵形に西湖堤で、南岸から反橋で結ばれている。池の南岸には時雨亭跡があり、西方には舟蔵跡、八千代亭跡、馬場跡がある。背後には庭園と水軒川との境をなす土塁状の堤があり、堤には、海水を池に導く2つの樋門が設けられている。
 園の周囲はクロマツを主に、アカマツ、ツバキ、モクセイ、ウバメガシ等が植栽され、園外にある章魚頭姿山、焼山の背景を自然につなげている。

和歌山城西之丸庭園(わかやまじょうにしのまるていえん)

和歌山城の北西麓、西之丸御殿の庭園。作庭時期は明らかではないが、江戸時代初期のものとみられている。1970〜1973年にかけての修理の際、周囲の庭園建築や茶室の跡も発見された。遺存例の少ない城郭内庭園。


文化財種別:名勝

〒640-8511
和歌山県和歌山市一番丁3
Tel:073-435-1044


 和歌山城の北西麓、西之丸御殿の庭園。作庭時期は明らかではないが、江戸時代初期のものとみられている。山上に天守の建つ虎伏山の傾斜地を活用し、二段の池や滝が設けられた回遊式庭園。
 城の内堀を引き込んで、大きな池に見立て緑色片岩の「柳島」を置いている。大きな池の畔には「鳶魚閣」が建てられ、亭より西に進むと、小さい池である「上の池」へと至る。池には船首を立ち上げたような石が置かれており、「御舟石」と称されている。上の池には紅葉渓橋をはじめ、土橋、石橋といくつもの橋が架けられている。秋には、見事な紅葉が見られることから、「紅葉渓庭園」とも呼ばれている。
 1970〜1973年にかけての修理の際、周囲の庭園建築や茶室の跡も発見され、遺存例の少ない城郭内庭園である。

琴ノ浦温山荘園(ことのうらおんざんそうえん)

製革業で財を成した新田長次郎が、大正初期から昭和の始めにかけて造園した潮入り式池泉回遊庭園。18,000坪以上の広大な面積を持ち、潮入の池泉に擬石・擬木などを多用した独特の意匠・構造・技法が見られる。


文化財種別:名勝

〒642-0001
和歌山県海南市船尾370
Tel:073-482-0201

ホームページ:http://www.onzanso.or.jp


 大正初期から昭和初期にかけて、製革業で財を成した新田長次郎が、大正初期から昭和のはじめにかけて造園した潮入り式池泉回遊庭園。
 庭園造成にあたり矢ノ島と陸地との間を埋め立て、給水管を園内に埋設して海水を導き入れて、2つの潮入の池泉が造成された。そのため池泉の水面が潮の干満により上下するのにともなって、水面に映る岸辺の岩影や緑陰が微妙な変化をみせる。
 矢ノ島の岩盤には庭園から海浜へと通ずる隧道を開削し、東麓に展開する人工的な池泉庭園の風景と西麓の自然の海浜の風致とを結びつけている。
 当時、珍しかったコンクリート製の擬石・擬木の素材を多用した独特の技法と、セメント・モルタルを用いて飛石と寄石敷を織り交ぜた園路の意匠・技法も随所に見られなど、立地を活かして様々な工夫を凝らして造られている。

旧赤穂城庭園(きゅうあこうじょうていえん)

赤穂城の本丸と二之丸に造られた大名庭園で、ともに千種川上流から取水した上水道の潤沢な水を引き込んだ池泉を持つ。発掘調査によって見つかった本丸と二之丸の庭園が一体となって保存された貴重な例であり、現在は発掘遺構を修復して復元整備が行われている。


文化財種別:名勝

〒678-0235
兵庫県赤穂市上仮屋1番地
Tel:0791-43-6962

ホームページ:www.ako-hyg.ed.jp/bunkazai/akojo/index.html


 旧赤穂城庭園は本丸庭園と二之丸庭園が一体となって保存された大名庭園。本丸庭園は、御殿南面の大池泉、中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉が設けられている。大池泉は岬・入江・中島・景石などを配し、池底に板石や瓦を幾何学的に並べ、砂利を敷くなどの化粧が施されている。中奥坪庭の小池泉は、東西に並んだ二つの小池で構成され、池の水は暗渠で大池泉へとつながっている。北西隅の池泉は汀線に礫石を敷きつめる素掘りの池泉で楕円形を呈している。二之丸庭園は、広い池泉からなる大規模な庭園で、屋敷に近い部分が流れの池泉であるのに対し、南西部は水深が深く舟遊びが可能な雄大な空間となっている。
 赤穂では、千種川上流から取水した水を城内と城下町の各戸へ給水しており、この上水は城内の池泉へも供給されていた。

田淵氏庭園(たぶちしていえん)

製塩業を中心に、赤穂の資産家として財を成した田淵氏の住宅庭園。邸は赤穂御崎の三崎山の麓に位置し、庭は居宅の背後に続く斜面の中腹にかけて作られている。庭園は上部に明遠楼、中腹に春陰斎、下部に書院と池庭が配置されている。


文化財種別:名勝

〒678-0215
兵庫県赤穂市御崎329番地1
Tel:0791-42-2225


 製塩業を中心に、赤穂の資産家として財を成した田淵氏の住宅庭園である。屋敷は赤穂御崎の三崎山の麓に位置し、庭は居宅の背後に続く斜面の中腹にかけて作られている。
表門から主屋の玄関へと至る導入部は、飛石沿いに坪庭風の庭園が展開し、書院の背面に岩盤をえぐり削って造られた池がある。池の周囲に植えられた樹々のなかにソテツが数多くあり、その下にツワブキが点々と植えられている。その様子から庭園のある地が温暖であることがよくわかる。池の対岸には傾斜面があり、約4mの滝石組が配されている。対して右には石橋が架かっており、それを渡って斜面の上に至る。傾斜が緩やかになるあたりで、右側に二階建の明遠楼が現れる。明遠楼の対面に巡らされた木塀には、「中潜り」が設けられており、それを抜けると茶室、春陰齋とその内露地にたどり着く。

安養院庭園(あんよういんていえん)

天台宗太山寺の子院安養院の書院の庭園。太山寺の原生林を借景として、雄大さを兼ね備えた庭園。作庭様式と石組手法には桃山時代の特色がよく表われている。借景となっている原生林は、環境省の重要地域「区域の生物学的特性を示す生態系」に指定されている。


文化財種別:名勝

〒651-2108
兵庫県神戸市西区伊川谷町前開258
Tel:078-974-0408


 天台宗太山寺の子院安養院の書院の庭であり、太山寺の原生林を借景として、雄大さを兼ね備えた枯山水の庭園である。
正面に巨石を三尊石風に立て、これを中心に鶴島、亀島の石を組み、その間を谷とし、谷の奥には蓬莱山風に石を組んでいる。
数多くの巨石を使用した枯山水庭園であるが、いわゆる枯山水庭園に見られる砂庭式枯山水庭園とは趣きを異にした庭園となっている。太山寺は、平安時代に創建されたが、たびたび火災に見舞われ、安養院も作庭年代や作者等を明らかにできる史料は失われている。作庭様式と石組手法には桃山時代の特色が表れており、その頃の作庭であることが推察できる。
 借景となっている原生林は、環境省の重要地域「区域の生物学的特性を示す生態系」に指定されている。

尾崎氏庭園(おざきしていえん)

書院の東から南にかけて掘られた池を中心とした庭園。園外にある松山を借景として、瀧口、蓬莱島、池畔等の石組が整えられている。江戸時代初期庭園の遺風が保存されており伯耆地方における造庭術発達の跡を窺うことができる。


文化財種別:名勝

〒682-0701
鳥取県東伯郡湯梨浜町宇野1518
Tel:0858-35-2003


 尾崎家は江戸時代の鳥取藩で寺社や宗教行政の務めを担った宗旨庄屋や大庄屋を務めた家で、
5代目当主・清右衛門の時に現在の敷地に移り、本宅、御仏間、数棟の蔵、門長屋などを新築した。
 庭は、茅葺屋根の主屋の南東方向に造られており、東から南にかけて掘られた池を中心に、左手の入り込みに枯滝の石組が、三尊形式の配石で組まれている。また、手前右の角に自然石で造られた手水鉢が置かれている。池を挟んだ対岸にはクロマツやソテツの古木が際立っており、ほかにもサツキ、モッコクなど約30種類が植えられている。
江戸時代初期の庭園の遺風が保存されており、伯耆地方における造庭術発達の跡を窺うことができる。

観音院庭園(かんのんいんていえん)

方丈の東南から西に低くなっている自然の傾斜を利用した築山と、その麓に庭の半分を占める池が配されている。滝の石組みや中島等は庭木とともに優美な景観が作られている。江戸時代後期の京都風庭園が地方化した適例の一つ。


文化財種別:名勝

〒680-0015
鳥取県鳥取市上町162
Tel:0857-24-5641


 観音院は鳥取藩池田家の祈願所8ヶ寺の1つで、藩主、池田光仲が十年をかけて築造させたといわれており、江戸時代後期に京都風庭園が地方化した庭の一つである。
方丈の東南から西に低くなっている自然の傾斜を加工して造られた築山と、その麓に庭の半分を占める池が掘られている。方丈から池を望むと築山後方の斜面へ樹林が続き、奥行きのある景色を見ることができる。池には、亀島、鶴島、滝などの石組みが元禄時代のままに配置されており、楕円形の低い中ノ島が浮かべられている。庭に植えられている植物は、地元に生育する野生種をうまく用いて美しい景観が造られている。春、桜の花が咲く時期は、地域の観光スポットになっている。
観音院の本尊である「聖観世音菩薩」は、祭壇を移るたびに大きな寺の本尊となったことから、「出世観音」の別名を持っている。

萬福寺庭園(まんぷくじていえん)

萬福寺は、平安時代に創建された安福寺を前身とし、現在の地には1374年に「萬福寺」として移築された。庭は、1479年に雪舟により作庭されたといわれる寺院式庭園。正面の心字池、緩やかな築山、渦巻き状に広がる石組は、仏教の世界観である須弥山世界を象徴している。


文化財種別:史跡・名勝

〒698-0004
島根県益田市東町25−33
Tel:0856-22-0302

ホームページ:manpukuji.server-shared.com/


 萬福寺の前身は、平安時代に創建された天台宗安福寺であったが大津波で流出し、その後、時宗の道場として再興され、室町時代の応安7(1374)年に益田七尾第11代城主によって、現在の地に萬福寺として移築された。
庭園は、文明11(1479)年に雪舟により作庭されたといわれる。正面に心字池が置かれた寺院式庭園である。
 池の右側は、背後の樹林が張り出して緑陰の下になっている。向こう岸に枯滝の石組みが置かれ、その手前に岬が仕立てられ、枯滝の左方に蓬莱石が据えられている。池の正面、中ほどを望むと、向こう岸に緩やかな築山が築かれている。築山の最上部に低めの立石が置かれ、下方に向かって渦巻き状に広がるように石組が配置されて、仏教の世界観である須弥山の世界を象徴している。池の左側から建物の西面はより開けた、明るい世界を表した造りになっている。

医光寺庭園(いこうじていえん)

医光寺の前身である崇観寺の5代住職は雪舟で、塔頭のひとつに庭園を作った。崇観寺は戦国時代に荒廃するが、後に医光寺と合併して現在に至る。庭園は鶴をかたどった池に亀島を配置した蓬莱式庭園で、四季折々の表情を見せる。


文化財種別:史跡・名勝

〒698-0011
島根県益田市染羽町4-29
Tel:0856-22-1668


 医光寺は臨済宗東福寺派の寺院で、その前身は崇観寺といい、室町時代に創建された。崇観寺は戦国時代に荒廃したが、益田家17代宗兼によって再興され医光寺となった。
崇観寺の5代住職は水墨画で有名な雪舟であり、塔頭の一つに庭園を造ったのが現在みられる庭園の始まりである。
庭園の様式は、池泉観賞半回遊式で、鶴をかたどった池に亀島が浮かぶ蓬莱式の庭園であり、春の枝垂れ桜、5月のツツジ、夏の緑陰は涼しく、秋にはカエデの大樹が色づく。冬の雪景色は、かつての住職雪舟の水墨画を連想させる。四季折々の違った表情をもっている。
 また、境内には雪舟を火葬にしたという灰塚やこの地で長く続いた領主・益田宗兼の墓、羅漢像など歴史を感じる彫刻なども見ることができる。

旧堀氏庭園(きゅうほりしていえん)

旧堀氏庭園は主屋の前庭、楽山園、和楽園、畑迫病院の外構造園の4箇所の園地から成る庭園。優れた意匠・構造をもつ多彩な造園的要素で構成されており、白石川の谷地形及び川沿いの土地利用とも一体となった独特の景観をみることができる。


文化財種別:名勝

〒699−5622
島根県鹿足郡津和野町邑輝795
Tel:0856-72-0010


 堀氏は江戸時代石見銀山の中の笹ヶ谷銅山の経営を担う銅山師たちの1人で津和野の有力な一族である。庭園は白石川沿いに建てられた住宅の主屋に南面する枯山水庭園と、15代堀藤十郎礼造が明治33(1900)年に建てた数寄屋建築「楽山荘」の庭園「楽山園」、大正4(1915)年白石川対岸の傾斜地に築造した「和楽園」と養魚池、堀氏が鉱山開発に関わった労働者や住民のために建設した畑迫病院の外構の造園の遺構を含む計4箇所から成る。
 主屋書院に南面する庭は土塀で囲まれた簡素で小規模な枯山水庭園で、江戸時代に定着した書院前庭の定型を見ることができる。楽山園は、2段になった滝石組や池辺の飛び石に沿った雪見燈籠や層塔型石灯籠などの石造物が見どころとなっているほか、主座敷から庭を望むと白石川沿いの水田から対岸の和楽園へ連続する風景が展開する。
 和楽園では、地形の特性を活かした様々な意匠が施されており、上方の展望地点からは白石川沿いの谷筋全体を望むことができる。畑迫病院跡は堀氏に関係した重要な福祉医療施設の遺跡であり、近代の病院施設に施された造園の遺構として貴重である。

頼久寺庭園(らいきゅうじていえん)

頼久寺書院南面の庭園。はるか正面の愛宕山を借景とし、鶴と亀の島を置いて石を組み、全面に白砂を敷く。頼久寺は、天保年間の大火によって焼失し、庭園も度々補修されているが、主要部には江戸時代初期の手法がみられ、すぐれた意匠を残している。


文化財種別:名勝

〒716-0016
岡山県高梁市頼久寺町18
Tel:0866-22-3516

ホームページ:raikyuji.com/


 暦応2(1339)年足利尊氏が安国寺として建立した禅寺頼久寺の書院南面の庭園であり、作庭家として有名な小堀遠州の初期の築庭と伝えられる蓬莱式枯山水庭。
庭園は、鶴と亀の島を置いて石を組み、全面に白砂を敷き、はるか正面の愛宕山を借景としている。書院左手にせまる山ぎわに、大株のサツキが植えられており、これが庭園の景色に得異な趣を加えている。このサツキの大刈込の手法は遠州独特のもので、この庭園においては大海の大波を表現しているとされる。頼久寺は天保年間の大火によってすべての伽藍が焼失し、明治維新の廃仏毀釈では、寺領を没収され、境内の大部分が失われている。庭園も度々補修されているが、主要部には江戸時代初期の手法がみられ、すぐれた意匠が残されている。

縮景園(しゅっけいえん)

元和6(1620)年、広島浅野藩初代藩主浅野長晟の別邸の庭園として築成された。作庭者は家老で茶人としても有名な上田宗箇。「縮景園」の名称は、幾多の景勝を聚めて縮めて表現したことに由来するが、中国の景勝地「西湖」を模したものとも云われる。


文化財種別:名勝

〒730-0014
広島県広島市中区上幟町2−11
Tel:082-221-3620

ホームページ:shukkeien.jp


 元和6(1620)年、広島藩初代藩主浅野長晟の別邸の庭園として造成された。作庭したのは、茶人としても知られる浅野藩家老の上田宗箇。
 庭園の中央には濯纓池と称される池がおかれ、大小10余の島が浮かべられている。周囲には築山、渓谷、茶室、橋、四阿などが巧みに配されていて、園路をたどって回遊できるようになっている。庭園の中ほどにある茶室「清風館」は、数寄屋造りで、西側は書院造りの様式をそなえ、東側には花頭窓が設けられ、池の中央に架けられた跨虹橋を臨むことができる。
 「縮景園」の名称は、幾多の景勝を聚めて縮めて表現したことに由来するが、中国の景勝地「西湖」を模して造られたとの説もある。
 昭和20(1945)年の原爆投下によって、庭園は壊滅的な状態になったが、その後約30年の月日を掛けて復元し、現在では国内外から多くの人が訪れる憩いの空間となっている。

浄土寺庭園(じょうどじていえん)

浄土寺境内の西北部、方丈と庫裡とに東南を囲われた築山泉水庭。自然の山畔を築山として利用し、前面白砂敷との間に細い池を設け、築山一帯に多数の石を配している。中央瀧の石組には、特に意匠が凝らされている。


文化財種別:名勝

〒722-0043
広島県尾道市東久保町20−28
Tel:0848-37-2361

ホームページ:www.ermjp.com/j/temple/index.html


 浄土寺境内の西北部、方丈と庫裡とに東南を囲われた築山泉水庭であり、自然の山畔を築山として利用し、前面白砂敷との間に細い池を設け、築山一帯に多数の石を配している。中央の瀧の石組には、特に意匠が凝らされている。
 寺が所蔵する古絵図によって文化3(1806)年、雪舟13代の孫・長谷川千柳によって作庭され、いわゆる「行の築山」の様式によったものであることが知られている。江戸時代以前に造られた庭園は、作者と年代が明らかな例は少ないので、貴重な庭園である。
 文化11(1814)年には築山背後に、茶室の露滴庵とその露地が造られた。後年、ツツジなどの植栽が繁茂し、本尊石をはじめ重要な石組が見えなくなっていたが、絵図によって作庭当初の地割と石組が良く保存されていることが判明していた。
 平成11(1999)年に改修工事が完了し、作庭当初の姿を見ることができるようになった。

常栄寺庭園(じょうえいじていえん)

常栄寺は約500年前、大内政弘が別邸として建てたもので、庭園は大内氏が雪舟に依頼して築庭させたものといわれている。山林を背景に心字池や枯滝、立石を配した庭は、多少改築の跡が認められるが、大部分は古態をよく残している。


文化財種別:史跡・名勝

〒753-0011
山口県山口市宮野下2001−1
Tel:083-922-2272


 常栄寺は約500年前、大内政弘が別邸として建てたもので、庭園は大内氏が雪舟に依頼して築庭させたものといわれている。
庭園は、丘陵の端、東南に開けた小さい谷戸の入り口に位置しており、谷の奥、山に向かって正面として作庭されている。
 その造りは、山林を背景として奥に心字池が置かれている。池より手前の庭地には、枯滝や数々の庭石が配され、立石の手法など、意匠は巧みで趣に富んでいる。
 多少改築された跡が見られるものの、その大部分は往時の状態をよく残しており、作庭した画僧雪舟の代表的な禅味あふれる庭園である。

毛利氏庭園(もうりしていえん)

1916年に築造された旧長州藩主毛利家の本邸の庭園。山口県防府市中心市街地の東に接する多々良山山麓に位置する。池泉周辺には、自然地形を活かしながら、石組、植栽、芝生、東屋、燈籠などを適所に配した典型的な回遊式庭園。


文化財種別:名勝

〒747-0023
山口県防府市多々良1−15−1
Tel:0835-22-0001


 大正5(1916)年に築造された旧長州藩主毛利家の本邸の庭園であり、山口県防府市中心市街地の東に接する多々良山山麓に位置する。もとは、水田のため池や小さな集落があったが、明治25(1892)年ごろに毛利家の新しい本邸の場として選ばれ、大正5(1916)年に本邸とともに完成した。 庭園は、本邸の2階建書院の南正面に広がる池泉回遊式庭園であり、表門から邸の表玄関に至る梛川に沿った通路を造り、毛利邸正面入口の広い車寄せの前に据えられた灯籠とヤマモモ、サツキが植えられた前庭が導入部となっている。
 ひょうたん型の内池泉は約5,500㎡の広さをもち、括れにあたるところに石橋が架けられ、自然地形を活かしながら、石組、植栽、芝生、東屋、燈籠などを適所に配し、回遊式庭園の典型を具現している。庭園の西北部には、この時代の庭園の特徴である、園遊会を主目的にした大芝生広場が設けられている。

宗隣寺庭園(そうりんじていえん)

臨済宗宗隣寺方丈の北側にあり、書院に面する築山泉水庭で「竜心庭」と称される。南に向いた丘陵に置かれた立石を中心とし、その下に池に向かって枯滝が組まれ、池中には8個の中型の立石が2列に配置されている。その作りから庭園の原型は南北朝時代のころと考えられている。


文化財種別:名勝

〒755-0067
山口県宇部市小串210
Tel:0836-21-1087


 宗隣寺は、寛文10(1670)年に宇部の領主・福原広俊が父、元俊の菩提を弔うため、当時荒廃していた普済寺の地に建てた臨済宗の寺で、普済寺のかつての池や庭を改修整備したものといわれている。
 庭園は方丈の北側にあり、書院に面する築山泉水庭で「竜心庭」と称される。南に向いた丘陵に置かれた立石を中心として置かれ、その下に枯滝が組まれ、池に落ちるようにしている。池の中には8個の立石が2列で「夜泊石」風に配置されている。
 このような作りは14世紀(南北朝時代)につくられたと伝えられる京都の知恩院や南禅寺にも似た型があり、当時の寺院の書院庭園としての様式が各所に見られることから、庭園の原型は南北朝時代のころと考えられていて、山口県内において最も古い庭園である。

天赦園(てんしゃえん)

宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部。広い池を主体とする庭園で、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に一小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いている。園内には、各種多様の暖温帯性植物が植栽され、中でもタケとフジの種類が多い。


文化財種別:名勝

〒798-0065
愛媛県宇和島市天赦公園
Tel:0895-25-2709


 宇和島藩七代藩主、伊達宗紀が造った隠居所の池泉回遊式庭園で、宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部にある。天赦園の名は、宇和島藩初代藩主秀宗が、仙台藩主伊達政宗の長子であったことから、政宗が退隠のときに詠んだ詩の一句からとったといわれている。
 庭園は広い池を主体として、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いている。池の東側の園の周囲には、クロマツ、クスノキ、ウバメガシなどの常緑樹が生い茂り、園の外景を遮断している。園内にも各種多様の暖温帯性植物が植栽され、ビロウのようなヤシ科の常緑高木も庭樹として用いられている。園内に植えられた植物の中でもタケとフジは種類が多く、天赦園独特の風致を生み出している。

竹林寺庭園(ちくりんじていえん)

竹林寺は湧水に恵まれた独立丘陵を選んで建立された。現在の竹林寺の主な建物群は、江戸時代後期に建てられたもので、庭園の池も古くからの湧水を利用して造られたものと考えられる。庭園は客殿・書院の周辺に展開し、大きく三つの部分により構成される。


文化財種別:名勝

〒781-8125
高知県高知市五台山3577
Tel:088-882-3085

ホームページ:www.chikurinji.com


 竹林寺は天平時代より前の神亀元(724)年)に行基が開創したといわれ、四国八十八ヶ所霊場のうち第31番札所の寺である。寺は湧水に恵まれた独立丘陵を選んで建立されている。現在の竹林寺の主な建物群は、江戸時代後期に建てられたものである。
 客殿の南側に面した前庭といえる空間は、もとは儀式等のために砂利だけを敷いた簡素なつくりであったものが、後に現在のような飛石と樹木が植えられたと考えられている。
 客殿の西庭は護岸を直線的な石段状にして水面を軒先近くに引き寄せて狭い水面に広がりを持たせ、水面を縁取る山裾と傾斜面の随所に景石が置かれている。
 北面から書院の西面及び北面にかけての庭園には、斜面に3段の力強い滝石組が組まれ、山裾に沿って造られた池の周囲は大振りの石で護岸されている。池は古くから、湧水を利用して造られたものと考えられている。
 門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士の記念館と県立牧野植物園がある。

旧伊藤傳右エ門氏庭園(きゅういとうでんえもんしていえん)

北部九州、筑豊の炭鉱王・伊藤傳右エ門が造営した本邸の庭園。庭園は、玄関前の導入部、主屋を含む一群の建築の間に造られた小規模な二つの中庭、敷地の北半部に展開する広大な池泉庭園と、三つの空間から成る。


文化財種別:名勝

〒820-0066
福岡県飯塚市幸袋300番地ほか
Tel:0948-22-9700

ホームページ:www.city.iizuka.lg.jp/shokokanko/kyoiku/leisure/kanko/dennemon/shite.html

ホームページ:www.kankou-iizuka.jp/denemon/


 北部九州、筑豊の炭鉱王・伊藤傳右エ門が造営した本邸の庭園。傳右エ門は炭鉱の経営に携わる傍ら、衆議院議員を二期努め、鉱業に関する法制度の整備や洪水が相次いだ遠賀川の改修にも尽力した。その遠賀川中流の左岸堤防に近接する微高地に構えられていた傳右エ門の本邸は、炭鉱事業の伸展とともに宅地が拡大され、大正時代前半に主屋北側の池泉庭園が概ね出来上がり、昭和初期までには現在見られる建物と庭園のほぼ全容が完成した。
 庭園は、造園的な意匠がこらされた玄関前の導入部と建築の隙間に造られた小規模な二つの中庭、そして敷地北側に造られた広大な池泉庭園の、大きく三つの空間で構成されている。池泉庭園にある2つの池泉には、東には花崗岩で、西には凝灰岩で造られた噴水施設があり、庭園の流れはすべて底部がセメントモルタルで塗り固められ、昭和初期に流行した庭園の意匠と構造の特質が見られる。

藤江氏魚楽園(ふじえしぎょらくえん)

作庭の年代は明らかでないが、園の命名が1862年との記録から、江戸時代中期ごろの作庭と考えられる。庭園は山麓に設けられ、池を中心として滝石組を山よりに据え、中島を配し、石橋が3か所に架けられている。


文化財種別:名勝

〒827-0001
福岡県田川郡川崎町大字安真木6388
Tel:0947-72-7777


 「魚楽園」という名前は、文久2(1862)年に江戸時代の漢学者村上佛山氏が、中国の詩経「大雅篇」の一文から引用して命名したといわれている。作庭の年代は明らかでないが、園の命名の記録から、江戸時代中期ごろの作庭と考えられる。
 庭園は山の麓に神仙蓬莱思想に基づいて造られており、池を庭の景色の中心として据え、池中に蓬莱島に見立てた島が配されている。滝石組を山よりに据え、石橋を3か所に架している。池の周囲にはカエデ、ツバキ、モクセイ、ソテツ、その下にツツジが植栽され、背後の山にはカエデ、アカマツ、スギなどが茂る樹林を控えて静寂幽邃な景観をみることができる。2018年、西日本豪雨の被害にあい、庭園は全面的に毀損し現在観賞はできない状態となっており、復興が待たれている。

水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)

湖に見立てた池には小島があり、列で配置された渡石の背後には、ゆるやかな起伏の築山が仕立てられている回遊式庭園。池の水は湧水であり渾々と清水が湧いている。園名の「成趣園」は、陶淵明の詩「帰去来辞」に由来する。


文化財種別:名勝・史跡

〒862-0956
熊本県熊本市中央区水前寺公園8−1
Tel:096-383-0074

ホームページ:www.suizenji.or.jp


 寛永9(1632)年肥後細川家初代藩主・細川忠利が鷹狩の折に、この地を気に入り、御茶屋を置いた。その後、三代藩主網利のときに庭園が完成した。庭園様式は回遊式庭園であり、陶淵明の詩「帰去来辞」より成趣園と命名された。
 庭園は、湖に見立てた池があり、小島が置かれている。列状に配置された渡石の背後には、ゆるやかな起伏が続く築山が仕立てられている。池の水は湧水であり渾々と清水が湧いている。
 元禄時代には、四阿も数多く造られて楽しまれたが、宝暦の改革で建物は酔月亭一つを残して撤去され、樹木も松を残すのみとなる。明治時代になり、版籍奉還で一時、官有地となった。
 園の北側には、細川藤孝・忠興以下歴代の藩主がまつられる出水神社がある。

妙国寺庭園(みょうこくじていえん)

庭園は本堂の南側に造られている。背後にある米ノ山の自然林を借景として、3カ所の築山と池には中島を置き木橋が架けられ、所々に庭石が配されている。庭の東から南にかけてシイノキの古木が生茂り、そこにアカマツの巨木が混じる。


文化財種別:名勝

〒883-0001
宮崎県日向市細島373
Tel:0982-52-2486


 妙国寺は、薩摩阿闍梨日叡上人が康永年間(1342〜1345)に開山したと伝えられる日蓮宗の名刹であり、庭園は本堂の南側に造られている。庭の東から南にかけて、背後の米ノ山の山すその斜面を庭の一部として、3カ所の築山を築いて、池の中央に中島を置き木橋が架けられている。池の辺に沿って様々な石が配されており、特に中島の周囲辺には立石による石組みが配されている。池の東側は山すその斜面がそのまま庭の景色として組み込まれており、斜面の一部狭く奥まったところには、花崗岩の岩壁に加工を施して階段状に造り、山からの水を引き込めるように造られている。引き込んだ水はそのまま池へと落とし込まれている。シイノキの古木が生茂り、そこにアカマツの巨木が混じる斜面が、広くない庭に奥行きを持たせている。

仙巌園附花倉御仮屋庭園(せんがんえんつけたりけくらおかりやていえん)

仙巌園は薩摩藩主島津家の別邸。照葉樹林が生い茂る磯山を北側にみて下に位置する場所に築造されている。南東には錦江湾を隔てて桜島を一望できる。庭園の滝、溪流の護岸、石橋等巨石を用いた豪宕な石組はいちじるしい改変を受けずに現代に残されている。


文化財種別:名勝

〒892-0871
鹿児島県鹿児島市吉野町9700−1
Tel:099-247-1551


 万治元(1658)年、島津家19代光久の別邸として、家老鎌田出雲守の旧宅であった大磯下津浜門屋敷に御仮屋を築いたのが始まり。「仙巌園」の名は、中国江西省の景勝地、龍虎山仙巌に似ていることに由来するとされている。
 照葉樹林が生い茂る磯山を北側にみて下に位置する場所に築造されており、南東には錦江湾を隔てて桜島の全容を借景とする。庭園は、建物の前を広く取って、海に向かって二段になっており、そこに石組みや石灯籠が置かれている。当初は下庭部分はなかった。道路(現国道10号線)の開通に伴って、石垣と植栽を造成して景観が変化している。
 花倉御仮屋は仙巌園の東およそ500mのところにあり、幕末の天保初年に島津家の離舘として造営され、時を経ずして廃された。しかし、庭園の滝や溪流の護岸、石橋などの巨石を用いた石組はいちじるしい改変を受けずに残され、江戸時代末期の景観を今に伝えている。(花倉御仮屋は現在非公開)

旧島津氏玉里邸庭園(きゅうしまづしたまさとていていえん)

「上御庭」と呼ばれる池庭と、一段低い西半部に「下御庭」と呼ばれる茶室の庭園が造られた。上御庭は書院座敷の南庭として造られたもので、東側に3つの築山と楕円形の池を持ち、下御庭は北寄りに茶室が建ち、その南側に広く池庭が展開する。


文化財種別:名勝

〒890-0012
鹿児島県鹿児島市玉里町27番20号
Tel:099-222-2627

ホームページ:www.tamazatotei-teien.jp


 鹿児島市の北部丘陵、愛宕山の西麓に位置する。島津家第27代当主、島津斉興によって天保6(1835)年に造営されたと伝えられている。敷地の東側半分には、かつて主屋建築群が建っていた平坦地があり「上御庭」と呼ばれる池庭が造られ、一段低い西側半分には、「下御庭」と呼ばれる茶室の庭園が造られた。
 上御庭は書院座敷の南庭として造られたもので、東側に3つの築山と楕円形の園池が造られている。池に注ぐ流れの石組は、浸食された海岸の石を用い、複数の流れから成る注ぎ口は渓流を模している。中島は、この池の別称「亀の池」の由縁となった亀の姿をかたどった岩が配置されている。茶室からは、樹木越し南方に山を望むことができる。
 下御庭は茶室の東側に渓谷をかたどった滝流れが造られ、そこから茶室の南東隅を回り込んで、自然石の大石橋の下を潜り滝となって池に注ぐ。中島や巨石、十数基の石灯籠など独特の意匠を持っている。

石垣氏庭園(いしがきしていえん)

石垣家の祖先の大浜親雲上が、首里の庭園師・城間親雲上の設計で1819年頃に築造した。主に琉球石灰岩が使われている。5つの石組みを北から南へと次第に低く築き、石橋を架け、枯れ滝を落とすなど日本庭園の様式をふまえながら、築山にソテツを植えるなど、地方色の濃い枯山水庭園。


文化財種別:名勝

〒907-0024
沖縄県石垣市新川287
Tel:0980-82-2720


 石垣市新川にある石垣家の庭園。石垣家は、琉球王朝時代に大浜間切地域の頭職を輩出した旧家。大浜間切地域は、現在の石垣島中部と西表島西部、波照間島を含む地域である。庭園の作庭年代は明らかでないが、石垣家に伝わる「庭作不審書」という造園の設計書の記載から、文政2(1819)年頃と推察されている。設計は宮良殿内庭園と同じ首里の庭園師・城間親雲上によるものとされている。
 庭園は、築山がおかれ、5つの石組みを北から南へと次第に低く築いて、枯滝を組み、石橋を架けた枯山水式の日本庭園となっている。石組みの石は、地元に産出する琉球石灰岩の自然石が使用されており、植栽にはフクギやアダンなど八重山に自生する植物が使われている。南国の雰囲気をまとった庭園である。