中国・四国地方」カテゴリーアーカイブ

中国・四国地方

この地域の文化財指定庭園の場所

尾崎氏庭園(おざきしていえん)

書院の東から南にかけて掘られた池を中心とした庭園。園外にある松山を借景として、瀧口、蓬莱島、池畔等の石組が整えられている。江戸時代初期庭園の遺風が保存されており伯耆地方における造庭術発達の跡を窺うことができる。


文化財種別:名勝

〒682-0701
鳥取県東伯郡湯梨浜町宇野1518
Tel:0858-35-2003


 尾崎家は江戸時代の鳥取藩で寺社や宗教行政の務めを担った宗旨庄屋や大庄屋を務めた家で、
5代目当主・清右衛門の時に現在の敷地に移り、本宅、御仏間、数棟の蔵、門長屋などを新築した。
 庭は、茅葺屋根の主屋の南東方向に造られており、東から南にかけて掘られた池を中心に、左手の入り込みに枯滝の石組が、三尊形式の配石で組まれている。また、手前右の角に自然石で造られた手水鉢が置かれている。池を挟んだ対岸にはクロマツやソテツの古木が際立っており、ほかにもサツキ、モッコクなど約30種類が植えられている。
江戸時代初期の庭園の遺風が保存されており、伯耆地方における造庭術発達の跡を窺うことができる。

正善院庭園(しょうぜんいんていえん)

三徳山三仏寺は標高900mの三徳山に境内を持つ山岳寺院で、正善院はその三院の1つ。方丈庭園と書院座敷に面した地泉式庭園とがある。書院座敷からの眺めは、庭の池を前景に、中景の樹林越しに文殊堂を借景として作庭されている。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒682-0132
鳥取県東伯郡三朝町三徳1013
Tel:0858-43-2668


 三徳山三仏寺は標高900mの三徳山に境内を持つ山岳寺院で、正善院はその三院の一つ。方丈庭園と書院座敷に面した池泉式庭園がある。
 方丈庭園は、斜面の傾斜を活かして3つの築山から構成されている。池庭には後背の山から引き込まれた水が滝となって落とされ、池に注いでいる。池には鶴と亀に見立てた中島と浮石が置かれている。池に面した書院座敷からの眺めは、池庭を前景に、中景の樹林越しに「文殊堂」を借景として作庭されている。
 三徳山の北斜面は非常に急峻で、斜面の多くが断崖絶壁となっている。山容は常緑広葉樹を主とした樹林でおおわれ、山全体が景勝のかなめとなっており、山岳寺院である三仏寺の建造物も重要な景観要素となっている。
 正善院の本堂は、2012年に火災で焼失するが、2015年より復元工事が始められている。

観音院庭園(かんのんいんていえん)

方丈の東南から西に低くなっている自然の傾斜を利用した築山と、その麓に庭の半分を占める池が配されている。滝の石組みや中島等は庭木とともに優美な景観が作られている。江戸時代後期の京都風庭園が地方化した適例の一つ。


文化財種別:名勝

〒680-0015
鳥取県鳥取市上町162
Tel:0857-24-5641


 観音院は鳥取藩池田家の祈願所8ヶ寺の1つで、藩主、池田光仲が十年をかけて築造させたといわれており、江戸時代後期に京都風庭園が地方化した庭の一つである。
方丈の東南から西に低くなっている自然の傾斜を加工して造られた築山と、その麓に庭の半分を占める池が掘られている。方丈から池を望むと築山後方の斜面へ樹林が続き、奥行きのある景色を見ることができる。池には、亀島、鶴島、滝などの石組みが元禄時代のままに配置されており、楕円形の低い中ノ島が浮かべられている。庭に植えられている植物は、地元に生育する野生種をうまく用いて美しい景観が造られている。春、桜の花が咲く時期は、地域の観光スポットになっている。
観音院の本尊である「聖観世音菩薩」は、祭壇を移るたびに大きな寺の本尊となったことから、「出世観音」の別名を持っている。

萬福寺庭園(まんぷくじていえん)

萬福寺は、平安時代に創建された安福寺を前身とし、現在の地には1374年に「萬福寺」として移築された。庭は、1479年に雪舟により作庭されたといわれる寺院式庭園。正面の心字池、緩やかな築山、渦巻き状に広がる石組は、仏教の世界観である須弥山世界を象徴している。


文化財種別:史跡・名勝

〒698-0004
島根県益田市東町25−33
Tel:0856-22-0302

ホームページ:manpukuji.server-shared.com/


 萬福寺の前身は、平安時代に創建された天台宗安福寺であったが大津波で流出し、その後、時宗の道場として再興され、室町時代の応安7(1374)年に益田七尾第11代城主によって、現在の地に萬福寺として移築された。
庭園は、文明11(1479)年に雪舟により作庭されたといわれる。正面に心字池が置かれた寺院式庭園である。
 池の右側は、背後の樹林が張り出して緑陰の下になっている。向こう岸に枯滝の石組みが置かれ、その手前に岬が仕立てられ、枯滝の左方に蓬莱石が据えられている。池の正面、中ほどを望むと、向こう岸に緩やかな築山が築かれている。築山の最上部に低めの立石が置かれ、下方に向かって渦巻き状に広がるように石組が配置されて、仏教の世界観である須弥山の世界を象徴している。池の左側から建物の西面はより開けた、明るい世界を表した造りになっている。

医光寺庭園(いこうじていえん)

医光寺の前身である崇観寺の5代住職は雪舟で、塔頭のひとつに庭園を作った。崇観寺は戦国時代に荒廃するが、後に医光寺と合併して現在に至る。庭園は鶴をかたどった池に亀島を配置した蓬莱式庭園で、四季折々の表情を見せる。


文化財種別:史跡・名勝

〒698-0011
島根県益田市染羽町4-29
Tel:0856-22-1668


 医光寺は臨済宗東福寺派の寺院で、その前身は崇観寺といい、室町時代に創建された。崇観寺は戦国時代に荒廃したが、益田家17代宗兼によって再興され医光寺となった。
崇観寺の5代住職は水墨画で有名な雪舟であり、塔頭の一つに庭園を造ったのが現在みられる庭園の始まりである。
庭園の様式は、池泉観賞半回遊式で、鶴をかたどった池に亀島が浮かぶ蓬莱式の庭園であり、春の枝垂れ桜、5月のツツジ、夏の緑陰は涼しく、秋にはカエデの大樹が色づく。冬の雪景色は、かつての住職雪舟の水墨画を連想させる。四季折々の違った表情をもっている。
 また、境内には雪舟を火葬にしたという灰塚やこの地で長く続いた領主・益田宗兼の墓、羅漢像など歴史を感じる彫刻なども見ることができる。

旧堀氏庭園(きゅうほりしていえん)

旧堀氏庭園は主屋の前庭、楽山園、和楽園、畑迫病院の外構造園の4箇所の園地から成る庭園。優れた意匠・構造をもつ多彩な造園的要素で構成されており、白石川の谷地形及び川沿いの土地利用とも一体となった独特の景観をみることができる。


文化財種別:名勝

〒699−5622
島根県鹿足郡津和野町邑輝795
Tel:0856-72-0010


 堀氏は江戸時代石見銀山の中の笹ヶ谷銅山の経営を担う銅山師たちの1人で津和野の有力な一族である。庭園は白石川沿いに建てられた住宅の主屋に南面する枯山水庭園と、15代堀藤十郎礼造が明治33(1900)年に建てた数寄屋建築「楽山荘」の庭園「楽山園」、大正4(1915)年白石川対岸の傾斜地に築造した「和楽園」と養魚池、堀氏が鉱山開発に関わった労働者や住民のために建設した畑迫病院の外構の造園の遺構を含む計4箇所から成る。
 主屋書院に南面する庭は土塀で囲まれた簡素で小規模な枯山水庭園で、江戸時代に定着した書院前庭の定型を見ることができる。楽山園は、2段になった滝石組や池辺の飛び石に沿った雪見燈籠や層塔型石灯籠などの石造物が見どころとなっているほか、主座敷から庭を望むと白石川沿いの水田から対岸の和楽園へ連続する風景が展開する。
 和楽園では、地形の特性を活かした様々な意匠が施されており、上方の展望地点からは白石川沿いの谷筋全体を望むことができる。畑迫病院跡は堀氏に関係した重要な福祉医療施設の遺跡であり、近代の病院施設に施された造園の遺構として貴重である。

岡﨑氏庭園(おかざきしていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。表口から裏口に通り抜けられる通り庭の形態をしており、座敷と中央の蔵をつなぐ縁側に沿って、狭いながらも奥行を演出した中庭がある。近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係)

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ロ213
Tel:0856-72-0005


 岡﨑氏庭園は旧津和野藩の城下町において、現在まで残されている約20におよぶ町民の住宅庭園の一つである。岡﨑氏は幕末の嘉永7(1854)年に創業した呉服太物、様端物、小間物を取り扱う御用商人で、「さゝや」の屋号で城下町中心の本町通りの中ほどに商家を構えた。庭園は仏間・主座敷の南から蔵座敷の東面と南面にかけて直角に曲がって巡りながら、奥の座敷へと通じる縁側の南に造られている。正確な作庭時期は不明であるが嘉永6(1853)年の大火の後、建物の改築に伴って現在見られる姿に変化を遂げてきたものとみられる。
 隣地と隔てる塀までの狭い帯状の空間に石で組んだ枯滝が設けられ、その南側に石組みとマツやイロハモミジなどの樹木が植えられた築山が造られている。築山は奥に向かって徐々に高くなっており、大きな立石と景石を据えて変化を持たせている。縁側を歩くにしたがって展開する枯流れや築山の意匠と佇まいは狭い空間を広く見せる工夫に満ちている。

財間氏庭園(ざいましていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。通りに面する表門内側の小さい前庭と主屋の東に面した主庭園からなっている。近世以来の商家の名残をとどめた近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ハ38
Tel:0856-72-2867


 財間氏庭園は旧津和野藩の城下町において、現在まで残されている約20におよぶ町民の住宅庭園の一つである。明治32(1899)年に、建築された津和野を代表する大型の町家建築である。酒類を販売する店舗と現在の主屋が建てられるに伴い、庭園の原形が造られたと考えられている。
 庭園は前庭と主庭園からなり、前庭は表門の内側に灯籠と1本のマツが植えられ、マツの周りに巨石を組んだ石組みが小空間を創り出し、庭門を通って蔵の前の小規模な庭へとつながっている。主庭園は主屋の奥座敷と仏間の東面に造られており、軒先近くに2つの水盤状の小さな池と庭石、燈籠、蹲踞などが配置され、周囲に飛び石が巡らされている。奥座敷の沓脱石から庭の奥へ飛び石が配され、石橋でつながる2つの築山の周囲を巡っている。奥座敷から庭を眺めると、最奥部の築山の頂部に据えられた春日燈籠と複数の立石が、庭外に望む青野山の景色をつないでいる。

田中氏庭園(たなかしていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。通り沿いの用水路から敷地へ引き入れた水を利用した池泉回遊式庭園で、津和野城下の他の池泉庭園とも共通する特徴を持っている。近世以来の商家の名残をとどめた近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ロ70
Tel:0856-72-1661


 田中氏庭園は旧津和野藩の城下町において、現在まで残されている約20におよぶ町民の住宅庭園の一つである。明治19(1886)年に製糸業を営んだ三浦五郎右衛門が主屋を建築した際に庭園の原形ができたと考えられている。昭和2(1927)年に絹織物で財を成した田中氏のものとなり、現在の庭園が成立した。
 庭園は、店舗と主屋の西南側に位置しており、座敷から観賞できるだけでなく、池の周囲を回遊できる池泉回遊式庭園である。庭園は通り沿いに建つ店舗・主屋と土蔵の間に設けられた表門から飛石を打った狭い前庭を経て、主屋と土蔵とをつなぐ渡り廊下に開けられた潜り門を抜け、津和野城跡の城山を背景とした緑豊かな池泉庭園へと至る。池の南岸には築山が造られており、頂部に据えられた立石と植栽された樹木とともに深山の趣を創り出している。前庭の飛石は主屋前面の沓脱石からの飛石と合流し、奥にある稲荷社と築山の頂部を経て池泉の周囲を巡って、随所に燈籠や庭石などの景物を楽しめるように造られている。

椿氏庭園(つばきしていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。庭の意匠や構成は近世から近代の坪庭の様式と共通するものがあり、近世以来の商家の名残をとどめた近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ロ190
Tel:0856-72-0021


 分銅屋(椿家)は慶長年間(1596年〜)の頃より、現在地において、和蝋燭、鬢付油、菜種油、椿油等を製造販売していた。元禄15(1703)年、徳川幕府の命で、作成された「津和野藩町並図」には、すでに「分銅屋半兵衛」として現在と同じ場所に描かれており、津和野藩の「八人衆」の一人として認定されて、その印として暖簾名の家紋を鋳出した黄銅の花活(薄端)が下賜され、今日まで伝わっている。
 建物は、嘉永6(1853)年の津和野城下大火災後、同年すぐさま建て直された。大火の直後のため、材木の調達が困難であり、焼け残った建物の中から再利用できそうな材木や敷居などの廃材を集めて造作した、所謂「火事後普請」の家屋である。江戸時代の商家建築の典型的な「町屋造り」の形態を留めており、国の「登録有形文化財」として指定されいる。
 庭園は、中庭が「椿氏庭園」として「登録記念物」に指定されている。江戸時代の作庭とされ、嘉永6年の大火の痕跡(黒い焦げ跡や石割れ)を石組の踏石で確認することができる。江戸時代には、明かりが十分では無く、また、風を入れる必要があったため、当時の町屋では、一般的に中庭が作られていた。飛石と飛石の間には、全面に杉苔が群生しており、風流を醸し出している。

 

岡山後楽園(おかやまこうらくえん)

水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに、日本三名園と称される。
貞享3(1686)年に岡山藩2代藩主池田綱政が、安らぎの場として造らせた庭園。当初は園内の建物から眺望を楽しむ庭園であったが、後継の藩主による改築で回遊性が備えられた。江戸時代からの様子がよく保存された庭園。


文化財種別:特別名勝

〒703-8257
岡山県岡山市北区後楽園1-5
Tel:086-272-1148

ホームページ:https://okayama-korakuen.jp/


 貞享3(1686)年に岡山藩2代藩主池田綱政が、安らぎの場として築庭させた庭園である。創設時は園内の建物から眺望が楽しめるように造られた。
 次の3代藩主継政は建物を大きく改築し、園内中央に築山を築いてふもとに水路を巡らし、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を造るなどの手を加え、園内をめぐり歩いて楽しめる回遊式を取り入れた庭園とした。藩主が訪れた際の居間であった延養亭からは、広がる芝生地と大きな池に庭園東のカエデ林の「千入の森」など園内の景勝が一望できる。
 昭和の戦災により岡山城が焼失したため、往時の借景は失われたが、今も東南方向に園外の操山を見渡すことができる。庭園の中央約6mに達する築山の頂上からは、園内に広がる沢の池の全貌や延養亭、芝生や井田を見晴らすことができる。大名庭園としての地割など古くからの形状が保たれた庭園である。

頼久寺庭園(らいきゅうじていえん)

頼久寺書院南面の庭園。はるか正面の愛宕山を借景とし、鶴と亀の島を置いて石を組み、全面に白砂を敷く。頼久寺は、天保年間の大火によって焼失し、庭園も度々補修されているが、主要部には江戸時代初期の手法がみられ、すぐれた意匠を残している。


文化財種別:名勝

〒716-0016
岡山県高梁市頼久寺町18
Tel:0866-22-3516

ホームページ:raikyuji.com/


 暦応2(1339)年足利尊氏が安国寺として建立した禅寺頼久寺の書院南面の庭園であり、作庭家として有名な小堀遠州の初期の築庭と伝えられる蓬莱式枯山水庭。
庭園は、鶴と亀の島を置いて石を組み、全面に白砂を敷き、はるか正面の愛宕山を借景としている。書院左手にせまる山ぎわに、大株のサツキが植えられており、これが庭園の景色に得異な趣を加えている。このサツキの大刈込の手法は遠州独特のもので、この庭園においては大海の大波を表現しているとされる。頼久寺は天保年間の大火によってすべての伽藍が焼失し、明治維新の廃仏毀釈では、寺領を没収され、境内の大部分が失われている。庭園も度々補修されているが、主要部には江戸時代初期の手法がみられ、すぐれた意匠が残されている。

大通寺庭園(だいつうじていえん)

大通寺は曹洞宗の古刹で、天平時代743年の開基と伝えられ、鎌倉時代には現在の地に移転建立された。庭園は書院の北側に広がっており、高峰山を借景にして、多くの石組で構成されていて別名「石寿園」とも呼ばれている。


文化財種別:岡山県指定名勝
種別:県指定名勝

〒714-1202
岡山県小田郡矢掛町小林1815
Tel:0866-82-0909


 天平15(743)年に開基されたと伝わる曹洞宗の古刹大通寺の庭園である。
 庭は、書院の北側に造られた池泉観賞式庭園で、江戸時代後期に、矢掛村の中西源兵衛により長い年月をかけて造られた。庭は、仏教思想に基づいて、仏教の宇宙観である須弥山に見立てた三尊石を中心にした構成で造られている。奥に造られた築山の上の中央あたりに三尊石が置かれ、書院に向かって滝が流れ落ちる景色を表し、その手前に置かれたひょうたん型の池には、石橋が架けられている。
 高峰山を借景に蓬莱、座禅石、鶴石など多くの石組が庭全体に広く配置されていることから、別名「石寿園」とも呼ばれている。

縮景園(しゅっけいえん)

元和6(1620)年、広島浅野藩初代藩主浅野長晟の別邸の庭園として築成された。作庭者は家老で茶人としても有名な上田宗箇。「縮景園」の名称は、幾多の景勝を聚めて縮めて表現したことに由来するが、中国の景勝地「西湖」を模したものとも云われる。


文化財種別:名勝

〒730-0014
広島県広島市中区上幟町2−11
Tel:082-221-3620

ホームページ:shukkeien.jp


 元和6(1620)年、広島藩初代藩主浅野長晟の別邸の庭園として造成された。作庭したのは、茶人としても知られる浅野藩家老の上田宗箇。
 庭園の中央には濯纓池と称される池がおかれ、大小10余の島が浮かべられている。周囲には築山、渓谷、茶室、橋、四阿などが巧みに配されていて、園路をたどって回遊できるようになっている。庭園の中ほどにある茶室「清風館」は、数寄屋造りで、西側は書院造りの様式をそなえ、東側には花頭窓が設けられ、池の中央に架けられた跨虹橋を臨むことができる。
 「縮景園」の名称は、幾多の景勝を聚めて縮めて表現したことに由来するが、中国の景勝地「西湖」を模して造られたとの説もある。
 昭和20(1945)年の原爆投下によって、庭園は壊滅的な状態になったが、その後約30年の月日を掛けて復元し、現在では国内外から多くの人が訪れる憩いの空間となっている。

浄土寺庭園(じょうどじていえん)

浄土寺境内の西北部、方丈と庫裡とに東南を囲われた築山泉水庭。自然の山畔を築山として利用し、前面白砂敷との間に細い池を設け、築山一帯に多数の石を配している。中央瀧の石組には、特に意匠が凝らされている。


文化財種別:名勝

〒722-0043
広島県尾道市東久保町20−28
Tel:0848-37-2361

ホームページ:www.ermjp.com/j/temple/index.html


 浄土寺境内の西北部、方丈と庫裡とに東南を囲われた築山泉水庭であり、自然の山畔を築山として利用し、前面白砂敷との間に細い池を設け、築山一帯に多数の石を配している。中央の瀧の石組には、特に意匠が凝らされている。
 寺が所蔵する古絵図によって文化3(1806)年、雪舟13代の孫・長谷川千柳によって作庭され、いわゆる「行の築山」の様式によったものであることが知られている。江戸時代以前に造られた庭園は、作者と年代が明らかな例は少ないので、貴重な庭園である。
 文化11(1814)年には築山背後に、茶室の露滴庵とその露地が造られた。後年、ツツジなどの植栽が繁茂し、本尊石をはじめ重要な石組が見えなくなっていたが、絵図によって作庭当初の地割と石組が良く保存されていることが判明していた。
 平成11(1999)年に改修工事が完了し、作庭当初の姿を見ることができるようになった。

常栄寺庭園(じょうえいじていえん)

常栄寺は約500年前、大内政弘が別邸として建てたもので、庭園は大内氏が雪舟に依頼して築庭させたものといわれている。山林を背景に心字池や枯滝、立石を配した庭は、多少改築の跡が認められるが、大部分は古態をよく残している。


文化財種別:史跡・名勝

〒753-0011
山口県山口市宮野下2001−1
Tel:083-922-2272


 常栄寺は約500年前、大内政弘が別邸として建てたもので、庭園は大内氏が雪舟に依頼して築庭させたものといわれている。
庭園は、丘陵の端、東南に開けた小さい谷戸の入り口に位置しており、谷の奥、山に向かって正面として作庭されている。
 その造りは、山林を背景として奥に心字池が置かれている。池より手前の庭地には、枯滝や数々の庭石が配され、立石の手法など、意匠は巧みで趣に富んでいる。
 多少改築された跡が見られるものの、その大部分は往時の状態をよく残しており、作庭した画僧雪舟の代表的な禅味あふれる庭園である。

毛利氏庭園(もうりしていえん)

1916年に築造された旧長州藩主毛利家の本邸の庭園。山口県防府市中心市街地の東に接する多々良山山麓に位置する。池泉周辺には、自然地形を活かしながら、石組、植栽、芝生、東屋、燈籠などを適所に配した典型的な回遊式庭園。


文化財種別:名勝

〒747-0023
山口県防府市多々良1−15−1
Tel:0835-22-0001


 大正5(1916)年に築造された旧長州藩主毛利家の本邸の庭園であり、山口県防府市中心市街地の東に接する多々良山山麓に位置する。もとは、水田のため池や小さな集落があったが、明治25(1892)年ごろに毛利家の新しい本邸の場として選ばれ、大正5(1916)年に本邸とともに完成した。 庭園は、本邸の2階建書院の南正面に広がる池泉回遊式庭園であり、表門から邸の表玄関に至る梛川に沿った通路を造り、毛利邸正面入口の広い車寄せの前に据えられた灯籠とヤマモモ、サツキが植えられた前庭が導入部となっている。
 ひょうたん型の内池泉は約5,500㎡の広さをもち、括れにあたるところに石橋が架けられ、自然地形を活かしながら、石組、植栽、芝生、東屋、燈籠などを適所に配し、回遊式庭園の典型を具現している。庭園の西北部には、この時代の庭園の特徴である、園遊会を主目的にした大芝生広場が設けられている。

宗隣寺庭園(そうりんじていえん)

臨済宗宗隣寺方丈の北側にあり、書院に面する築山泉水庭で「竜心庭」と称される。南に向いた丘陵に置かれた立石を中心とし、その下に池に向かって枯滝が組まれ、池中には8個の中型の立石が2列に配置されている。その作りから庭園の原型は南北朝時代のころと考えられている。


文化財種別:名勝

〒755-0067
山口県宇部市小串210
Tel:0836-21-1087


 宗隣寺は、寛文10(1670)年に宇部の領主・福原広俊が父、元俊の菩提を弔うため、当時荒廃していた普済寺の地に建てた臨済宗の寺で、普済寺のかつての池や庭を改修整備したものといわれている。
 庭園は方丈の北側にあり、書院に面する築山泉水庭で「竜心庭」と称される。南に向いた丘陵に置かれた立石を中心として置かれ、その下に枯滝が組まれ、池に落ちるようにしている。池の中には8個の立石が2列で「夜泊石」風に配置されている。
 このような作りは14世紀(南北朝時代)につくられたと伝えられる京都の知恩院や南禅寺にも似た型があり、当時の寺院の書院庭園としての様式が各所に見られることから、庭園の原型は南北朝時代のころと考えられていて、山口県内において最も古い庭園である。

栗林公園(りつりんこうえん)

元は高松藩藩主松平氏の別邸で、明治時代1875年に香川県が管理・運営する公園となった。広大な敷地に6つの池、13の築山を有し大名庭園の中でも最大級で、文化財に指定された庭園の中では日本一の広さをもつ。


文化財種別:特別名勝

〒760-0073
香川県高松市栗林町1−20−16
Tel:087-833-7411

ホームページ:my-kagawa.jp/ritsuringarden


 本園は南庭と北庭と二つからなる。南庭は江戸時代初期の大名庭園の姿を今日に伝え、回遊式庭園に見られる地割りや石組みを有し、北庭は元禄年間に造園され鴨場として使われてきた場所であったが、大正時代初期に宮内省の市川之雄の設計で改修され、その後一部を改変して今日に至っている。紫雲山を背景にした広大な敷地に6つの池、13の築山を有している。
 園の池や樹木、石組は雅趣に富んでおり、工作物が巧みに配置されている。紫雲山には、うっそうとした樹木が自然の味わいを加え、山頂からはすばらしい景色が眺望できる。明治30(1897)年に山の東斜面にあった国有林を新たに加えて現在の敷地となった。
 紫雲山を含めた面積は、約75ヘクタールにも及び、文化財に指定された庭園では日本一の大きさを誇っている。

天赦園(てんしゃえん)

宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部。広い池を主体とする庭園で、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に一小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いている。園内には、各種多様の暖温帯性植物が植栽され、中でもタケとフジの種類が多い。


文化財種別:名勝

〒798-0065
愛媛県宇和島市天赦公園
Tel:0895-25-2709


 宇和島藩七代藩主、伊達宗紀が造った隠居所の池泉回遊式庭園で、宇和島城の西部に接する旧浜御殿の敷地の一部にある。天赦園の名は、宇和島藩初代藩主秀宗が、仙台藩主伊達政宗の長子であったことから、政宗が退隠のときに詠んだ詩の一句からとったといわれている。
 庭園は広い池を主体として、岬・入江・曲浦など屈曲の多い汀線で囲まれた池に小島を置き、池辺の要所の石組には多く和泉砂岩の海石を用いている。池の東側の園の周囲には、クロマツ、クスノキ、ウバメガシなどの常緑樹が生い茂り、園の外景を遮断している。園内にも各種多様の暖温帯性植物が植栽され、ビロウのようなヤシ科の常緑高木も庭樹として用いられている。園内に植えられた植物の中でもタケとフジは種類が多く、天赦園独特の風致を生み出している。

竹林寺庭園(ちくりんじていえん)

竹林寺は湧水に恵まれた独立丘陵を選んで建立された。現在の竹林寺の主な建物群は、江戸時代後期に建てられたもので、庭園の池も古くからの湧水を利用して造られたものと考えられる。庭園は客殿・書院の周辺に展開し、大きく三つの部分により構成される。


文化財種別:名勝

〒781-8125
高知県高知市五台山3577
Tel:088-882-3085

ホームページ:www.chikurinji.com


 竹林寺は天平時代より前の神亀元(724)年)に行基が開創したといわれ、四国八十八ヶ所霊場のうち第31番札所の寺である。寺は湧水に恵まれた独立丘陵を選んで建立されている。現在の竹林寺の主な建物群は、江戸時代後期に建てられたものである。
 客殿の南側に面した前庭といえる空間は、もとは儀式等のために砂利だけを敷いた簡素なつくりであったものが、後に現在のような飛石と樹木が植えられたと考えられている。
 客殿の西庭は護岸を直線的な石段状にして水面を軒先近くに引き寄せて狭い水面に広がりを持たせ、水面を縁取る山裾と傾斜面の随所に景石が置かれている。
 北面から書院の西面及び北面にかけての庭園には、斜面に3段の力強い滝石組が組まれ、山裾に沿って造られた池の周囲は大振りの石で護岸されている。池は古くから、湧水を利用して造られたものと考えられている。
 門前横には高知が生んだ世界的な植物学者、牧野富太郎博士の記念館と県立牧野植物園がある。