「近畿地方」カテゴリーアーカイブ
多賀大社庭園(たがたいしゃていえん)
安土桃山時代に作庭された庭園で奥書院と呼ばれる書院造りの建物から眺めるようにつくられている。大きな木々と築山、大小さまざまな自然石が見事に配され、美しい曲線で表された石組み護岸の池に鶴島、亀島が浮かぶ。
文化財種別:名勝
〒522-0341
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
Tel:0749-48-1101
ホームページ:www.tagataisya.or.jp/about/
安土桃山時代に作庭された庭園で奥書院と呼ばれる書院造りの建物から眺めるようにつくられている池泉鑑賞式庭園である。境内を囲む鎮守の森の大きな木々と築山、大小さまざまな自然石が見事に配され、美しい曲線で表された石組み護岸の池に鶴島、亀島が浮かぶ。庭園の中央に不動三尊石、右隅に枯滝、その下には自然石の石橋が渡されている。書院東側に続く庭にも趣のある石がいくつか配され、苔の緑との対照が鮮やか。
奥書院庭園の作庭は、豊臣秀吉が母大政所の病気治癒を祈願し快癒延命が成就した礼として天正16(1588)年に寄進した1万石によって成されたといわれている。
青岸寺庭園(せいがんじていえん)
曹洞宗の寺院、青岸寺の庭園。江戸時代初期に三世興欣が、彦根城の玄宮園、楽々園を築いた香取氏に作庭させたとされる。本堂裏手にあり、うっそうと茂る裏山を背景に、山腹を利用して築かれた庭園。
文化財種別:名勝
〒521-0012
滋賀県米原市米原669
Tel:0749-52-0463
ホームページ:www.seiganji.org/
曹洞宗の寺院、青岸寺の庭園。南北朝時代の初め(延文年間)に、近江源氏の佐々木京極道誉が自ら書写した法華経八巻を納めて米泉寺を建てたのがはじまりである。その後、永正年間の戦火により寺院のほとんどを焼失し、150年余りを経た江戸時代、慶安3(1650)年に再興され青岸寺となった。
庭園は本堂裏手にあり、うっそうと茂る裏山を背景に、山腹を利用して築かれており、太尾山山麓の地形を利用した回遊式枯山水庭園で、空池を設け、石橋を架けて蓬莱島を作り、右手奥には枯滝を組んでいる。庫裏の前に建つ石灯籠は茶人好みの寄せ灯籠で庭に一段の景を添える。江戸時代初期に三世興欣和尚が、彦根城の玄宮園、楽々園を築いた香取氏に命じて延宝6(1678)年に作庭させたとされる。
青岸寺庭園では、枯山水の流れや池に小石や白砂を用いるかわりにスギゴケを用いて、水の流れが表現されており、雨のあとはスギゴケに染み込んだ水が伏流水のように湧いて出て本物の池へと姿を変える。そのため雨上がりの景色は格別となる。
光浄院庭園(こうじょういんていえん)
三井寺山内塔頭寺院のひとつ光浄院の庭園。各所にツツジ、サツキが密植され、山腹にはスギ・ヒノキ・マツなどが生い茂る。小規模ながら奥行のある味わい深い構成は近江の代表的な庭園といわれている。
文化財種別:史跡・名勝
〒520-0036
滋賀県大津市園城寺町246
Tel:077-522-2238
三井寺山内塔頭寺院のひとつ光浄院の庭園。築造された年代は明確ではないが、客殿が建てられた慶長6(1601)年頃に造られたとみられる。
池泉観賞式の庭園は、客殿と一体化した構成で、客殿南縁の柱が護岸の石の上に立つため、客殿の縁の直下から池となり、足もと近くまで水が湛えられ、池上建築に似た趣をみせている。
池は東西に長く続き、亀島に自然石の橋が架けられ、対岸の古滝を2個の立石、池中の夜泊石を3個の巨石から作っており、池周辺を固める石組は、自然石が選ばれて使われている。
池の西南方は急傾斜地となっており、山腹にはスギ・ヒノキ・マツなどが生い茂り、各所にツツジ、サツキが密植されている。
小規模ながら奥行のある味わい深い構成は、近江の代表的な庭園といわれている。
善法院庭園(ぜんぽういんていえん)
築庭の年代は明確ではないが、江戸時代初期といわれる。1941年の集中豪雨による山津波で土砂に埋没したが、近年の復興整備による発掘調査でその全貌が明らかとなった。関連する建築物は現存しないが、庭園はかつての様子がよく保存されている。
文化財種別:史跡・名勝
〒520-0036
滋賀県大津市園城寺町246
Tel:077-522-2238
善法院は三井寺の6碩室の子院。築庭の年代は明確ではないが、江戸時代初期といわれる。庭園は昭和9(1934)年に国の名勝・史跡に指定されたが、昭和16(1941)年の集中豪雨による山津波で土砂に埋没した。
しかし、庭園研究の大家・重森三玲による実測図が残されていたことと、林学者で造園の研究者の岡崎文彬らの指導のもと発掘調査が実施され、その全貌が明らかにされた。関連する建築物は現存しないが、庭園の池汀や石組みなどは保存されている。
大津市歴史博物館のデータベースの記載によれば、書院の前に2つの池があり、中島や石橋、巨石による石組みなど、詳しい地割が判明していることがわかる。しかし、書院、庭園ともいまだ復元はされていない。
兵主神社庭園(ひょうずじんじゃていえん)
兵主神社本殿の南側、北に面して築造された庭園。1953年に国の名勝指定を受けた際には、鎌倉時代中期から末期のものと考えられていたが、その後に行われた修復整備事業の平安時代に特徴的な遺構が発見され、平安時代後期から末期にかけての作庭と判明した
文化財種別:名勝
〒520-2424
滋賀県野洲市五条566
Tel:077-589-2072
兵主神社本殿の南側、北に面して築造された池泉回遊式庭園であり、心字形の池には、中島が置かれ石橋が架けられている。中島には祠があり、ほかにも出島や築山が築かれるなど、変化に富んでいる。
近年の修復整備事業の際に池の水を抜いて発掘調査が行われ、平安時代に特徴的な「州浜」の遺構が発見された。作庭時期は鎌倉時代中期から末期のものと考えられていたが、遺構が発見されたことにより、平安時代後期から末期にかけての作庭と判明した。
庭一面をスギゴケやハイゴケのみずみずしい緑が彩っており、春はツツジ、初夏は新緑、梅雨は菖蒲、秋はモミジ、冬は雪景色と四季折々に美しい姿がみられる。
玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)
玄宮園と楽々園とより成り彦根城の北東、内堀と昔の内湖との間に位置する。江戸時代、延宝年間の築造と伝えられている。彦根城天守や茂った木々の美しい背景を借景とした景観とよく調和した優秀な大名庭園。
文化財種別:名勝(特別史跡)
〒522-0061
滋賀県彦根市金亀町3番地
Tel:0749-22-2742
(彦根城運営管理センター)
回遊式の玄宮園と御殿の楽々園(槻御殿)から成り彦根城の北東、内堀と昔の内湖との間に位置する。江戸時代前期、延宝年間の築造と伝えられている。
玄宮園には大池泉が穿たれ、元島、新島など4個の中島を置かれている。そして東部から北部にかけて築山が築かれて、園路がめぐらされている。園の主景は、巨石を組んだ元島とこれに相対して池に臨んで建てられた八景亭であり、庭園北部からは彦根城の天守とその樹林が背景となった美しい景観が眺められる。
文化年間に槻御殿を増築し、玄宮園の一部を修補して奥向書院に伴う庭とした。楽々園には滝と流れの石組みが造られており、現在は枯山水となっているが、往時は導水施設が備えられ、給水されていた。
金剛輪寺明壽院庭園(こんごうりんじみょうじゅいんていえん)
天台宗の古刹、金剛輪寺の本坊である明壽院の庭園。南庭、東庭、北庭の三区画が心字池で結ばれ、それぞれ桃山時代から江戸時代初期、中期にかけて作庭されたと考えられる。
文化財種別:名勝
〒529-1202
滋賀県愛荘町松尾寺874
Tel:0749-37-3211
ホームページ:http://www.kongourinji.jp/
明壽院庭園は、南北およそ70メートルにわたり書院から山裾まで15メートルの間を折れ曲がりながら広がっていて、園内には護摩堂と茶室水雲閣がある。南庭は、明壽院の中門を入った正面にある緩やかな山辺を利用し、池の中央に板石三枚を使って巧みに橋を架け、その先には中世の宝篋印塔が配される。池の左上に建つ護摩堂は正徳元年(1711)に建立された。東庭は書院内仏殿の正面に広がり、山肌を巧みに利用した本庭園の中心である。正面に豪快な滝石組を配し、池には中島が作られる。その右側には池に高く張り出した茶室水雲閣が、天保年間に建てられて以来の優美な姿を見せている。北庭は東庭からさらに奥に向かって広がる位置にあり、滝石組の設けられた池には、悩める衆生を迷いの世界である此岸から、仏の覚りの世界である彼岸へ導き渡すかのように、舟石が配されている。また、植栽されたサツキやカエデ等の美しさとは別に、庭園全域にわたって上部に屹立するスギやヒノキ等の巨木群が、山岳密教寺院の厳粛かつ神秘的な雰囲気を漂わせている。
普門寺庭園(ふもんじていえん)
江戸時代初期、正保年間の寺観整備にともなって作庭されたと推定されている。阿武山を借景にした池泉式枯山水庭園で、小堀遠州の弟子、玉淵坊によって築庭されたといわれる。庭園は方丈の西側北寄りに位置し、桂離宮の石組が取り入れられている。
文化財種別:名勝
〒569-0814
大阪府高槻市富田町4−10−10
Tel:072-694-2093
普門寺は、南北朝時代、明徳元(1390)年に蘭渓道隆のながれをくむ設巌和尚によって開創された禅寺で、江戸時代になると妙心寺派に移り、京都の龍安寺の末寺となった。明治時代の廃仏毀釈、戦後の農地解放で、現在の本照寺、三輪神社、旧富田小学校まであった敷地は減少し寺は荒廃するが、昭和末期に新たに住職を迎え復興した。
庭園は江戸時代初期、正保年間の寺観整備にともなって作庭されたと推定されている。阿武山を借景にした池泉式枯山水庭園で、小堀遠州の弟子、玉淵坊によって築庭されたといわれる。
庭園の地形には多少の起伏があり、低い所を水面に、やや小高くなっている所を岸あるいは島に見立てて、要所に石を組み、石橋が架けられている。
平等院庭園(びょうどういんていえん)
平安時代中期の阿弥陀堂と一体になった最古の浄土建築と浄土庭園。当時の貴族たちが希求した極楽浄土の光景を再現している。後年、川の氾濫対策のため堤防が築造されるなど、作庭当時の姿からは一変しているものの、周辺の景観はいまなお昔の風情を残している。
文化財種別:史跡・名勝
〒611-0021
京都府宇治市宇治蓮華116
Tel:0774-21-2861
平等院は、藤原頼通によって宇治川の中流、宇治橋南東の河畔に建てられた寺院。平安時代の中頃は、日本独自の文化が熟成していくとともに、「末法思想」も広く信じられるようになっていく時代であり、そのような風潮にあって当時の貴族たちは、極楽浄土の世界を希求したといわれる。そのような時代に造られた庭園で、最古の浄土庭園である。
鳳凰堂やそれを取り囲む阿字池は、極楽の宝池を模したもので、その美しい姿が水面に映る様子は、現世に極楽浄土をあらわしているとされる。春はサクラからツツジ、フジが咲き、夏はサルスベリと池のスイレン、秋はモミジ、冬はサザンカにツバキが咲き、四季折々の景色が宇治川の清流や背景の山々を借景に美しく広がる。
後年、川の氾濫対策のため堤防が築造されるなど、作庭当時の姿からは一変しているものの、周辺の景観はいまなお昔の風情を残している。
大沢池附名古曽滝跡(おおさわいけつけたりなこそのたきあと)
大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人口の林泉(林や泉水などのある庭園)。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。
文化財種別:名勝
〒616-8411
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
Tel:075-871-0071(大覚寺代表)
Tel:075-871-0191(管財課直通)
平安時代前期、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824)に造営された離宮「嵯峨院」の庭園に池と滝が造られた。中国の「洞庭湖」を模して造られたところから庭湖とも呼ばれている。
池には天神島、菊が島と庭湖石があり、池の北に滝が造られている。発掘調査から築庭当初は、かなりの水量があったと推定されているが、藤原公任(966〜1041)が詠んだ歌に「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」とあるように、平安中期には既に水は枯れていたことが推察できる。
池の畔には、弘法大師が離宮の鎮守として勧請したと伝えられる五社明神が建っている。
多くの桜が植えられた花の名所であり、また月の名所としても名高く、春には花見に、秋には月見に多くの人が訪れる。
醍醐寺三宝院庭園(だいごじさんぽういんていえん)
醍醐寺は平安時代に始まった名刹で座主が居住する三宝院の庭園。応仁・文明の乱により醍醐寺の山内は荒廃するが、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」を契機に復興され、庭園についても優れた庭師たちによって作庭された。
文化財種別:特別史跡・特別名勝
〒601-1325
京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
Tel:075-571-0002
醍醐寺は平安時代に理源大師聖宝が、「醍醐水」といわれる名水の湧く笠取山に観音像をまつったのが始まりとされる名刹。座主は三宝院に居住していたが、応仁・文明の乱で醍醐寺の山内は荒廃して、三宝院もまた失われた。荒廃した醍醐寺を建て直したのが義演准后で、豊臣秀吉の庇護を受けて寺を再興した。豊臣秀吉は慶長3(1598)年、金剛輪院のあった地に三宝院を新たに造るにあたり、自ら縄を張り3人の庭奉行にもとあった庭を修築させたといわれる。翌年の慶長3年8月に秀吉は亡くなるが、その後は義演の手で修築が続けられ、義演が亡くなるまで27年に渡って築庭された。
庭は中央に池を置き、3島を設けて9基の橋を架けて南側に築山を築き、東側には滝が架けられている。池の畔には多くの景石が置かれて、その中には歴代の天下人が所有していた名石の「藤戸石」も置かれた。ゴヨウマツやシイ・カシの常緑樹の大木が立ち、「豪放」と「清雅」な趣をあわせ持っている。
慈照寺庭園(じしょうじていえん)
東山文化を代表する臨済宗相国寺(しょうこくじ)派に属する禅寺の庭園。庭園は夢窓疎石(むそうそせき)が作庭した西芳寺(さいほうじ)の庭園をモデルに造られており、月待山、大文字山を環境とした池泉回遊式庭園である。
文化財種別:特別史跡・特別名勝
〒606-8402
京都府京都市左京区銀閣寺町2番地
Tel:075-771-5725
東山文化を代表する臨済宗相国寺派に属する禅寺の庭園。室町幕府3代将軍足利義満の北山殿金閣鹿苑寺にならって、8代将軍足利義政が隠居生活のために造営した山荘東山殿の庭であり、夢窓疎石が作庭した西芳寺の庭園を模しているといわれる。
平地には池泉回遊式庭園、裏山には枯山水庭園の上下2段で構成され、池泉回遊式庭園は錦鏡池と称される池を中心に、銀閣と東求堂が配されている。これらの庭園は、江戸時代初期の改修で景観が大きく変わっている。
庭園を構成する要素のうち、注目されるのが白砂で造られた銀沙灘と円錐台形の向月台で、中国・西湖の波打つ風景を描写した銀沙灘と、富士山状に造られた向月台は、月に照らされる光の反射を意識して造営されたといわれる。
妙心寺庭園(みょうじんじていえん)
江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、1965年に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。
文化財種別:史跡・名勝
〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町1
Tel:075-461-5226
妙心寺は、臨済宗妙心寺派大本山の寺院であり、庭園は江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、近代に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。
方丈庭園の西側の部分は、室町時代の絵師狩野元信の作であると伝えられ、「元信の庭」と称されている。元信は狩野派の絵画様式の確立者といわれている。
余香苑は、もとは方丈庭園の背景となっていた竹林があったところで、昭和30年代に竹林が寿命で枯死したため、昭和40(1965)年に新たに作庭された。作庭は、庭園研究家であった中根金作氏の設計、施工で敷地の左右に「陽の庭」、「陰の庭」と名付けられた枯山水の庭が作られている。
玉鳳院庭園(ぎょくほういんていえん)
徳川中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ南庭、山岳、風水泉の3つの庭がある。南庭は一面に白砂が敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが列植されている。山岳の庭と風水泉の庭はともに石組み庭石が巧みに配され、清雅の趣がある。
文化財種別:史跡・名勝
〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町60
Tel:075-461-5226
臨済宗妙心寺派の大本山の46ある塔頭のうち、最初に建立された寺院で、花園法皇によって建立され、玉鳳禅宮とも称される。表門を入ると正面に庫裏があり、方丈と開山堂(妙心寺の開祖、関山慧玄の遺骸が葬られている堂)が渡り廊下で結ばれ、渡り廊下の北と南に桃山時代の様式の庭園が造られている。
庭園は、江戸時代中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ「南庭」、「鶏足嶺」、「風水泉」の3つの庭がある。
「南庭」は、白砂が一面に敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが植栽されている。
「鶏足嶺」の庭は、開山堂の東に築山を築いて山岳風の石組みがされている。「風水泉」の庭は、北側の庭で、枯れ滝、蓬莱石の石組み、飛び石が配され、その中に風水泉と呼ばれる井戸と棗形手水鉢が置かれている。「鶏足嶺」の庭と「風水泉」の庭はともに石組みが巧みに配置された庭となっている。
不審菴(表千家)庭園(ふしんあん(おもてせんけ)ていえん)
茶道の三千家のうちの表千家の茶庭(露地)。西側の外露地、残月亭前の露地、祖堂前の露地、不審菴の内露地から成る。このうち不審菴の内露地は最奥で残月亭、祖堂前の広い露地から梅見門をくぐって入る。広くない内露地でありながら深山の静けさを作り出している。
文化財種別:名勝
〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町597
Tel:075-432-2195
茶道の三千家のうちの表千家の茶庭(露地)。西側の外露地、残月亭前の露地、祖堂前の露地、不審菴の内露地から成る。
西側の外露地を通り、露地口から中へ入り「中潜り」を抜けると、右に祖堂へと入る萱門、左には残月亭へつながる飛び石がつづいている。祖堂の前には、蹲踞や空堀などが設けられた広い路地が造られている。
かわって萱門の手前を左に飛び石を進むと、残月亭に至る。残月亭の右手に置かれた井戸や巧みに配置された飛び石、梅見門と程よい植え込みで造られた露地を見ることができる。
梅見門を潜ると、不審菴の内露地にようやく入ることになる。内露地には右に内腰掛、その傍らに砂雪隠、蹲踞、小さい飛石が配され、躙口へと導く。狭いながら奥深い山を感じさせ、静かな空間を作り上げている。
代々受け継がれていくあいだに、茶室や稽古場などの建物が移築や新築され、そのたびに露地にも手が加えられてきたため、複雑な構成の露地に発展してきた。
今日庵(裏千家)庭園(こんにちあん(うらせんけ)ていえん)
茶道の三千家のうちの裏千家の茶庭(露地)。千家3代千宗旦が隠居屋敷に建てた茶室が始まり。
兜門をくぐり大玄関から腰掛待合、中門へと露地を通り抜けて茶室へと至る。中門は景色を持たせない外露地と、幽玄の趣を盛り上げた内露地とに区別する境界となっている。
文化財種別:名勝
〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613
Tel:075-431-3111
今日庵は、「又隠」とともに裏千家の中心をなす茶室であり、千宗旦が構えた隠居屋敷の中に、2畳の茶室を造ったのがはじまり。
露地とは、茶室の庭のことで、兜門をくぐり大玄関から腰掛待合、中門へと露地を通り抜けて茶室に至る。
中門は極めて簡素に造られているが、中門を境界として、景色を持たせない外露地と、幽玄の趣を盛り上げた内露地とに区別する露地の構成上、大きな意味を持っている。
外露地は、付属物を省略し常緑樹の緑と、木洩れ日の明暗だけが変化する要素となっている。
内露地は、亭主に迎えられて茶室へ入るまでに通る露地で、席入する客が手水を使う四方仏の蹲踞は、苔むして丸味を帯びた仏体の輪郭も定かではなく、幽玄の趣を盛りあげたつくりとなっている。
二条城二の丸庭園(にじょうじょうにのまるていえん)
二の丸庭園は,寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸のために作事奉行・小堀遠州のもとで改修された庭園。池の中央に蓬莱島,左右に鶴亀の島を配し,二の丸御殿の大広間,黒書院,行幸御殿跡の3方向から鑑賞できるように工夫されている。現存する城郭の築山泉水庭として最も優れたものと言われている。
文化財種別:特別名勝
〒604-8301
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
Tel:075-841-0096
二の丸庭園は,寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸のために幕府の作事奉行・小堀遠州のもとで行幸御殿に面する庭園として改修された庭園である。
その後,行幸御殿は移築,撤去されたが,二の丸御殿の大広間,黒書院,行幸御殿跡の3方向から鑑賞できるように工夫された庭園は,変化に富む曲汀を有し,池の中には3箇所の中島(蓬莱島,鶴島,亀島)を置き,自然石の4橋が架けられ,北西隅には3段の瀧を落として池の汀や池辺に多くの石が組まれている。庭園の西部は,マツ,カヤ,クロガネモチ,アラカシ,シイ,トベラ,ムクノキ,サクラ,モミジ等の樹林が庭園の背景を成し,南部は広い芝生となって多数の松がほどよく点在している。庭園内の石組は特に豪宕の趣を有し,現存する城郭の築山泉水庭として最も優れたものと言われている。
本願寺大書院庭園(ほんがんじだいしょいんていえん)
書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓の庭」の名で知られる。
白砂敷の上に2つの中島が築かれている。枯滝、岩組は大らかで、力強い様が表され、桃山時代書院式林泉の特色を表現している。
文化財種別:特別名勝・史跡
〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る
Tel:075-371-5181
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗本願寺派の本山で、西本願寺ともいう。大書院庭園は書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓の庭」の名で知られる。
庭園は平庭で、東側に築山が築かれており、数多くの立石が組まれ、5つの灯籠が据えられている。中央よりやや北寄りに、二個の巨石を並立した枯滝の石組みが構えられている。玉石敷きで表された枯流は海を表す白砂敷きに続き、急流が大海に注ぐ様子を表している。2つの中島は、色鮮やかな石を用いて護岸石組みがされ、反りのある石橋と自然石の小橋が架けられている。石組みの間に配植されたソテツは桃山時代の書院式林泉庭園の特色を持ち、力強く堂々とした岩組や枯滝は、桃山時代の作庭精神がよく表れている。
本願寺滴翠園(ほんがんじてきすいえん)
飛雲閣の前庭で、飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。飛雲閣は三層の楼閣であって最下層に設けられた船入りによって池に通じるようになっている。池を中心に亭舎を配置し、ツツジや梅等の花木を植え、大石を用いた石組は秀逸。
文化財種別:名勝
〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る
Tel:075-371-5181
滴翠園は、浄土真宗本願寺派の本山である本願寺境内の東南隅に建つ飛雲閣の前庭で、飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。飛雲閣は、豊臣秀吉の聚楽第の遺構と伝えられ、金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つとされている。建物は三層の楼閣で、最下層に設けられた船入りによって池に通じるようになっている。
庭園は、飛雲閣の北側から西側にかけて建物をめぐるように広い池がつくられている。池の形は中央がくびれた形状になっており、そこに石橋が架けられており、この橋を渡って飛雲閣へとたどり着く。飛雲閣から池を望むと、右手に木の間越しに鐘楼が見え、ツツジやウメなどの花木が植えられ、大きな石組みが配されている。池が建物直下まで迫っており、この池に映る建物の形が飛ぶ雲のようであることから「飛雲閣」と名付けられたと伝える。通常、非公開である。
渉成園(東本願寺)(しょうせいえん(ほんがんじ))
渉成園の名称は、中国の詩人陶淵明が故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節から採られたもの。敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったため百間屋敷とも、カラタチ(枳殻)を植えていたために枳殻邸(きこくてい)ともいわれた。
文化財種別:名勝
〒600-8190
京都府京都市下京区珠数屋町通間之町東入東玉水町
Tel:075-371-9210(本廟部 参拝接待所)
寛永18(1641)年、東本願寺第13代宣如上人の時に、三代将軍・徳川家光から寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされた。
渉成園の名称は、中国の詩人陶淵明が故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節から採られたもので、池岸の水面に乗り出して設けられた茶亭や、屋根のついた橋(廊橋)など、随所に中国的な雰囲気が見られる。
敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったため百間屋敷とも、カラタチ(枳殻)を植えていたために枳殻邸ともいわれた。庭園には四季折々の花が咲きほこり、変化に富んだ景観は「十三景」と高く評価されている。
庭の中をめぐって観賞する池泉回遊式庭園ではあるが、池の外周を一周できる作りにはなっていない。
鹿苑寺庭園(ろくおんじていえん)
金閣寺には舎利殿の前面に広がる鏡湖池と、北側の一段高いところにある安民沢と呼ばれる2つの池がある。池には大文字山から水が流入しており、大雨による多量の出水時に土砂が流入するため、安民沢には鏡湖池の沈砂池としての機能がある。
文化財種別:特別史跡・特別名勝
〒603-8361
京都府京都市北区金閣寺町一番地
Tel:075-461-0013
室町幕府3代将軍足利義満は、将軍職を子の義持に譲り出家した後、応永4(1397)年に西園寺家の山荘を譲り受け、北山殿を造営した。義満の死後、その遺命によって寺とされ、義光の法号である鹿苑院にちなんで鹿苑寺と称された。
金閣寺には舎利殿(金閣)の前面に広がる鏡湖池と、北側の一段高いところにある安民沢と呼ばれる2つの池がある。
舎利殿の前面に広がる鏡湖池は池泉回遊式庭園で、岸や中島に景石を多用している。
池の水は、大文字山から流入しており、大雨による多量の出水時には土砂が流入するため、一段高い安民沢に流入させ、水中の砂泥を沈下させてから鏡湖池へ流しだす沈砂池としての機能がある。金閣の裏側にある安民沢は、景石も少なく、西園寺公経が鎌倉時代に造営した池と考えられている。
大仙院書院庭園(だいせんいんしょいんていえん)
大仙院の開山古岳和尚によって作庭された。庭園は本堂の四方に展開しており、庭を廊橋などで区分し、山、川、海を表現している。狭い敷地に多数の岩石を布置し、山水の景色を表現した枯山水の名園。
文化財種別:特別名勝・史跡
〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町54-1
大仙院
Tel:075-491-8346
大仙院は、京都市街地の北、大徳寺の中にある塔頭寺院で、永正6(1509)年に大徳寺第76世の大聖国師古岳宗亘が開いた寺院で、その庭園も古岳和尚によって作庭されたことが、大仙院に伝わる文書から判っている。
庭園は本堂の四方に展開しており、南側は玄関脇の白砂敷に二つの盛砂を並べて大海を表している。東側の庭は北東隅に大石で組まれた枯滝石組が置かれツバキやゴヨウマツを植えて深山幽谷の景色を表現している。枯滝石組の下方には石橋が架けられ、その下流には白砂敷の上に船の形に似た石が据えられて海に続く大河を表している。山、川、海を表現している
庭を中央で二分している廊橋は、明治時代の終わりに撤去されたことがあり、山と海がつながった状態になっていたが、昭和35(1960)年に復元され、名園本来の姿が取り戻された。
聚光院庭園(じゅこういんていえん)
臨済宗大徳寺派に属する寺院・聚光院は茶道の三千家ゆかりの寺。その方丈の南面にある枯山水の庭園は、千利休の作庭と伝えられ約50坪の広さを持つ。据えられた石はすべて小ぶりであるが、要所に立石を据えて景色に変化を与えている。
文化財種別:名勝
〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町58
Tel:075-492-6880
聚光院は、永禄9(1566)年三好義嗣が父長慶の菩提をとむらうため、大徳寺百七世笑嶺宗きんを招いて建立した臨済宗大徳寺派に属する寺院で、笑嶺和尚に参禅した千利休が檀家となって以来、茶道三千家の菩提所となっている。境内には利休の墓を中心に三千家歴代の墓所がある。
庭園は、方丈の南面にある枯山水庭園で、千利休の作庭と伝えられ約50坪の広さを持つ。石組の多さから「百積の庭」と称されている。
一面の苔で被覆された庭は生垣で背景を区切り、生垣に沿って東から西に二群に分けて石組みが配置されている。その中央に石塙でわずかに小高くされている。石はすべて小ぶりなものが使われており、要所に立石が据えられて、景色に変化を加えている。
照福寺庭園(しょうふくじていえん)
照福寺本堂及び書院の北側にある含勝庭と呼ばれる庭園。「含勝堂仮山記」という園記が寺に残っており、天保14(1843)年、住職仙裔和尚の自作であることがわかっている。綾部地方には古庭園がまれであることから、作者・作庭年代が明白な点で価値が認められている。
文化財種別:名勝
〒629-1263
京都府綾部市鷹栖町小丸山33
Tel:0773-46-0185
照福寺本堂及び書院の北側にある含勝庭と呼ばれる庭園。「含勝堂仮山記」という園記が寺に残っており、天保14(1843)年住職仙裔和尚の自作であることがわかっている。
寺の北に由良川が流れ、遠山を望み、背後には山が控える景勝地にある。
庭は、正面左手奥に築山が配され、守護石が立てられている。その脇に石を組んだ枯滝が置かれている。築山はなだらかに右手に延びて、その正面中央にも立石が据えられ、枯滝が設けられ、石橋が架けられている。石組には、地元の山石が利用されている。築山の下には枯池が配され、築山の山すそを、岬のように手前に突出させて島のように見せている。池をめぐって打たれた飛び石は本堂と書院をつないでいる。
綾部地方には古庭園がまれであることから、作者・作庭年代が明白な点で価値が高い。
南禅寺方丈庭園(なんぜんじほうじょうていえん)
南禅寺は鎌倉時代の正応4(1291)年に創建された寺で、住持の居所である方丈の庭園。庭園は江戸時代初期の小堀遠州の作と伝えられている。築山や巨石を立てて仏教的世界観を表現した日本庭園とは違い、石を寝かして配置した平庭の枯山水庭園で、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれている。
文化財種別:名勝
〒606−8435
京都府京都市左京区南禅寺福地町86
Tel:075-771-0365
南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山で、方丈は慶長16(1611)年に女院御所の旧殿を移築したもので、庭園も同じころに作られたものと考えられている。
庭園は小堀遠州の作と伝えられており、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園で、方丈と築地塀で整然とした長方形に区画され白砂が敷かれた平庭である。方丈から見た庭の左奥に主石を置き、さらに塀沿いに右へ数個の石が配されて、方丈の前面と右手は白砂の広い空間が広がっている。景石の間にモミジ、マツ、モチノキ、ツバキ、丸く刈り込まれたサツキなどが植えられている。白砂、庭石、庭樹、築地塀が作り出す景色が、背景の松林や山と一体となって調和のとれた庭園となっている。築地塀の白壁には薄青色をした5本の定規筋が水平に引かれている。定規筋は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院であることの証で、筋の数が寺の格式を表しており、5本線は最高格式とされる。
旧大乗院庭園(きゅうだいじょういんていえん)
創設は平安時代のようであるが、室町時代中期に大乘院の門跡・尋尊が善阿彌に依頼して修補している。明治以後、荒廃したが全体としては室町時代の地割を残している。優秀な作庭が行われた室町時代のもっとも優秀な山水河原者・善阿彌の作庭遺構。
文化財種別:名勝
〒630-8301
奈良県奈良市高畑町1083-1
Tel:0742-24-0808
ホームページ:http://www.national-trust.or.jp/protection/index.php?c=protection_view&pk=1491202122
大乗院は興福寺の門跡寺院で創設は平安時代とされている。室町時代の中頃に、それまでの徳政一揆で荒廃した庭園を修復するため、善阿彌とその子が、大乘院の門跡・尋尊に招かれて、修補を行った。善阿彌は時の将軍、足利義政の同朋衆(将軍や大名に近侍して茶事や芸能、雑務などの仕事に就いた者)で作庭の名手であったという。
往時は東大池と西小池があり、東大池には南中島と北中島が作られ、これらが庭園の主要な地割となっていたが、明治以降に荒廃して西小池と南中島は、現在見ることはできない。しかし、全体としては室町時代の地割を残しており、今も四季折々に変化する花木が庭園を彩っている。作庭が行われた室町時代のもっとも優秀な山水河原者・善阿彌の作庭遺構である。
依水園(いすいえん)
前園は江戸時代(延宝年間)に、後園は明治時代に作庭されており、創始を異にする二つの庭園を水流でつなぎ、あわせて依水園と称する。東大寺南大門の屋根や若草山、春日山、御蓋山の三山を借景として取り入れたすぐれた庭園。
文化財種別:名勝
〒630-8208
奈良県奈良市水門町74
Tel:0742-25-0781
ホームページ:www.isuien.or.jp
東大寺南大門の西、吉城川の北側にある。前園は江戸時代(延宝年間)に、後園は明治時代に作庭された。創建時を異にする二つの庭園は水の流れでつながり、併せて「依水園」と称される。
前園は、奈良の晒業者、清須美氏の別業三秀園の遺構を整備したもので、後園は奈良の富商、関藤次郎のときに作られ、若草山、東大寺南大門、春日山や御蓋山を借景としている。ほかに飛石、沢渡には伽藍石、挽臼石などが用いられ、サツキやオカメザサなどが植栽されるなど、全般に明治らしい特色のよく表れた庭園となっている。二つの庭園からなる依水園は奈良を代表する池泉回遊式庭園である。
なお、園内には「寧楽美術館」があり、古代中国の青銅器や朝鮮の高麗・李朝の磁器、日本の茶道具などが所蔵、展示されている。
奈良公園(ならこうえん)
明治13年に興福寺の元境内と春日大社の約43,000坪の土地を区分して公園とし奈良県が管理を始めた。後に周辺の山林と東大寺手向山神社寺の境内地を編入し、さらに風致上必要な民有地を買い取り、歴史公園とも称される奈良公園となった。
文化財種別:名勝
〒630-8114
奈良県奈良市芝辻町543
Tel:0742-22-0375
奈良公園は太政官布達にもとづき、明治13(1880)年に興福寺境内および春日野などの約15haを公園として設置したことに始まる。その後、若草山、春日山などを加えて、奈良県が都市公園として整備してきた。文化財としての名勝奈良公園は、猿沢池、鷺池、春日野および若草山などを含む県立都市公園としての奈良公園に、東大寺と興福寺の境内地も加えた524haの広さで大正11(1922)年に指定された。公園内には春日大社の神使とされる1200頭の野生の鹿が生息し、国の天然記念物として保護されている。春日野の広大な芝生は、鹿が食べたことで成り立っている独特の風景である。毎年1月に行われる若草山の山焼きは、若草山に火をつけて山全体を燃やす早春を告げる奈良の伝統行事となっている。若草山の隣の春日山は太古から伐採されることなく残されてきた原始林に覆われており、特別天然記念物春日山原始林に指定されている。鷺池に浮かぶ浮見堂、猿沢池、興福寺の五重塔など歴史文化と自然を織り交ぜた風景美が随所に見られる。
天徳院庭園(てんとくいんていえん)
天徳院客殿の南に位置する。池を中心としておだやかな意匠に構成されている。池中に鶴島と亀島の中島を置き石橋を架けてこれらをつないでいる。対岸は自然の傾斜地を築山として扱い、池畔左手に枯れ滝石組を設けて庭の主景としている。
文化財種別:名勝
〒648-0211
和歌山県伊都郡高野町高野山370
Tel:0736-56-2714
天徳院は、江戸時代初期の元和元(1615)年に、加賀藩主前田利常によって創建されたといわれ、作庭も同時期であると考えられている。幕末の元治元(1864)年に、園内の建物いっさいが焼失してしまうが、往時の地割や石組みは残されている。
庭園は天徳院客殿の南にあり、池を中心としておだやかな意匠に構成されている。池中に鶴島と亀島の中島を置き石橋を架けて、これらをつないでいる。対岸は自然の傾斜地を築山として扱い、池畔左手に枯れ滝石組を設けて庭の主景としている。後方には、スギ、マツ、サワラ、イチイなどの針葉樹の高木が木立をつくり、山麓から池の辺にかけては、低く刈りこまれたアセビ・シャクナゲ・イヌツゲ・ツツジなどが植えられている。
石組みなどに少なからず、荒廃の様子が見られるが、後世に補修された形跡がなく、かえって往時の様子が残されている。
粉河寺庭園(こかわでらていえん)
主として緑泥片岩に属する巨大な岩石が、多数かつ変化に富む手法で堅固に、美しく組まれた日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園。石の間をツツジでうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどが植えられている。
文化財種別:名勝
〒649-6531
和歌山県紀の川市粉河2787
Tel:0736-73-4830
ホームページ:www.kokawadera.org
粉河寺は、西国巡礼の霊場の一つとして知られる。西国巡礼の道は、わが国最古の巡礼道であり、近畿・東海の2府5県にまたがる観音さまの霊場をめぐる道程である。
庭園は本堂と山門との間に造られた桃山時代の石の庭で、山門から本堂までの高低差、約3mを結ぶ石段の両側に造られており、土留め石垣としての機能も持っている。主として緑泥片岩に属する巨大な岩石が、変化に富んだ手法で堅固に、かつ美しく組まれている。多彩に組まれた石組みの間は、刈込まれたツツジが植えられ、さらにその間にビャクシン、シダレザクラ、ソテツなどを植え飾っている。石組全体の構成は向かって左手に重点が置かれ、枯れ滝や石橋、鶴亀の島などが表現されている。
多彩な石組みを持つ日本庭園の中でも先例のない石組みの庭園である。
根来寺庭園(ねごろじていえん)
奥書院を北から西、南へと囲む平庭と聖天堂南面の聖天池から成る。聖天池の池辺一帯にはマツ・カエデなどが植えられ風致に富む。奥書院は寛政12(1800)年 に紀州徳川家の吹上御殿が移築され、翌享和元年に落成するが、これに伴い作庭された。
文化財種別:名勝
〒649-6202
和歌山県岩出市根来2286
Tel:0736-62-1144
ホームページ:www.negoroji.org
奥書院を北から西、南へと囲む平庭と聖天堂南面の聖天池から成る。
奥書院の北および西に面するものは築山泉水庭で、裏山の裾に池をほり、北正面に滝頭石組を高く積み重ねて滝を三段に落す。池には大小2つの島が低く築かれ、2枚の石橋が架かる。またほかに浮島を据え、島と池の汀辺は主に平石による石組で護岸されている。
奥書院の南庭は東南隅に立石を組み、景石が配され、アカマツやツツジ等が植えられた平庭となっている。
聖天堂南面の聖天池は、中央に島があって弁戝天を祀り、附近に若干の石組が残っている。池の周辺一帯にマツやカエデなどが植えられ風致に富んだ景色となっている。
養翠園(ようすいえん)
和歌山市の西南方、大浦湾に接する紀州藩水軒御用地の一部に、文政年間、第10代紀州藩主徳川治宝が営んだ別邸。クロマツを主にアカマツ、ツバキ、モクセイ、ウバメガシ等が植栽された約33,000㎡におよぶ大名庭園。庭園には海水を取り入れた汐入りの池がある。
文化財種別:名勝
〒641-0036
和歌山県和歌山市西浜1164
Tel:073-444-1430
和歌山市の西南方、大浦湾に接する紀州藩水軒御用地の一部に、文政年間、第10代紀州藩主徳川治宝が営んだ別邸で、庭園の広さは33,000㎡におよぶ。
庭園の地割の主体は東西に長く広い池で、池の西部に書院や茶席が配置されている。池は海水を取り入れた汐入りの池で、ゆるやかに屈曲し、池の西北隅に立石を置き、中央からやや東寄りに中島が置かれている。中島には弁財天、稲荷社が祀られており、中島へは北岸から鍵形に西湖堤で、南岸から反橋で結ばれている。池の南岸には時雨亭跡があり、西方には舟蔵跡、八千代亭跡、馬場跡がある。背後には庭園と水軒川との境をなす土塁状の堤があり、堤には、海水を池に導く2つの樋門が設けられている。
園の周囲はクロマツを主に、アカマツ、ツバキ、モクセイ、ウバメガシ等が植栽され、園外にある章魚頭姿山、焼山の背景を自然につなげている。
和歌山城西之丸庭園(わかやまじょうにしのまるていえん)
和歌山城の北西麓、西之丸御殿の庭園。作庭時期は明らかではないが、江戸時代初期のものとみられている。1970〜1973年にかけての修理の際、周囲の庭園建築や茶室の跡も発見された。遺存例の少ない城郭内庭園。
文化財種別:名勝
〒640-8511
和歌山県和歌山市一番丁3
Tel:073-435-1044
和歌山城の北西麓、西之丸御殿の庭園。作庭時期は明らかではないが、江戸時代初期のものとみられている。山上に天守の建つ虎伏山の傾斜地を活用し、二段の池や滝が設けられた回遊式庭園。
城の内堀を引き込んで、大きな池に見立て緑色片岩の「柳島」を置いている。大きな池の畔には「鳶魚閣」が建てられ、亭より西に進むと、小さい池である「上の池」へと至る。池には船首を立ち上げたような石が置かれており、「御舟石」と称されている。上の池には紅葉渓橋をはじめ、土橋、石橋といくつもの橋が架けられている。秋には、見事な紅葉が見られることから、「紅葉渓庭園」とも呼ばれている。
1970〜1973年にかけての修理の際、周囲の庭園建築や茶室の跡も発見され、遺存例の少ない城郭内庭園である。
琴ノ浦温山荘園(ことのうらおんざんそうえん)
製革業で財を成した新田長次郎が、大正初期から昭和の始めにかけて造園した潮入り式池泉回遊庭園。18,000坪以上の広大な面積を持ち、潮入の池泉に擬石・擬木などを多用した独特の意匠・構造・技法が見られる。
文化財種別:名勝
〒642-0001
和歌山県海南市船尾370
Tel:073-482-0201
ホームページ:http://www.onzanso.or.jp
大正初期から昭和初期にかけて、製革業で財を成した新田長次郎が、大正初期から昭和のはじめにかけて造園した潮入り式池泉回遊庭園。
庭園造成にあたり矢ノ島と陸地との間を埋め立て、給水管を園内に埋設して海水を導き入れて、2つの潮入の池泉が造成された。そのため池泉の水面が潮の干満により上下するのにともなって、水面に映る岸辺の岩影や緑陰が微妙な変化をみせる。
矢ノ島の岩盤には庭園から海浜へと通ずる隧道を開削し、東麓に展開する人工的な池泉庭園の風景と西麓の自然の海浜の風致とを結びつけている。
当時、珍しかったコンクリート製の擬石・擬木の素材を多用した独特の技法と、セメント・モルタルを用いて飛石と寄石敷を織り交ぜた園路の意匠・技法も随所に見られなど、立地を活かして様々な工夫を凝らして造られている。
旧赤穂城庭園(きゅうあこうじょうていえん)
赤穂城の本丸と二之丸に造られた大名庭園で、ともに千種川上流から取水した上水道の潤沢な水を引き込んだ池泉を持つ。発掘調査によって見つかった本丸と二之丸の庭園が一体となって保存された貴重な例であり、現在は発掘遺構を修復して復元整備が行われている。
文化財種別:名勝
〒678-0235
兵庫県赤穂市上仮屋1番地
Tel:0791-43-6962
旧赤穂城庭園は本丸庭園と二之丸庭園が一体となって保存された大名庭園。本丸庭園は、御殿南面の大池泉、中奥坪庭の小池泉、本丸北西隅の池泉が設けられている。大池泉は岬・入江・中島・景石などを配し、池底に板石や瓦を幾何学的に並べ、砂利を敷くなどの化粧が施されている。中奥坪庭の小池泉は、東西に並んだ二つの小池で構成され、池の水は暗渠で大池泉へとつながっている。北西隅の池泉は汀線に礫石を敷きつめる素掘りの池泉で楕円形を呈している。二之丸庭園は、広い池泉からなる大規模な庭園で、屋敷に近い部分が流れの池泉であるのに対し、南西部は水深が深く舟遊びが可能な雄大な空間となっている。
赤穂では、千種川上流から取水した水を城内と城下町の各戸へ給水しており、この上水は城内の池泉へも供給されていた。
田淵氏庭園(たぶちしていえん)
製塩業を中心に、赤穂の資産家として財を成した田淵氏の住宅庭園。邸は赤穂御崎の三崎山の麓に位置し、庭は居宅の背後に続く斜面の中腹にかけて作られている。庭園は上部に明遠楼、中腹に春陰斎、下部に書院と池庭が配置されている。
文化財種別:名勝
〒678-0215
兵庫県赤穂市御崎329番地1
Tel:0791-42-2225
製塩業を中心に、赤穂の資産家として財を成した田淵氏の住宅庭園である。屋敷は赤穂御崎の三崎山の麓に位置し、庭は居宅の背後に続く斜面の中腹にかけて作られている。
表門から主屋の玄関へと至る導入部は、飛石沿いに坪庭風の庭園が展開し、書院の背面に岩盤をえぐり削って造られた池がある。池の周囲に植えられた樹々のなかにソテツが数多くあり、その下にツワブキが点々と植えられている。その様子から庭園のある地が温暖であることがよくわかる。池の対岸には傾斜面があり、約4mの滝石組が配されている。対して右には石橋が架かっており、それを渡って斜面の上に至る。傾斜が緩やかになるあたりで、右側に二階建の明遠楼が現れる。明遠楼の対面に巡らされた木塀には、「中潜り」が設けられており、それを抜けると茶室、春陰齋とその内露地にたどり着く。
安養院庭園(あんよういんていえん)
天台宗太山寺の子院安養院の書院の庭園。太山寺の原生林を借景として、雄大さを兼ね備えた庭園。作庭様式と石組手法には桃山時代の特色がよく表われている。借景となっている原生林は、環境省の重要地域「区域の生物学的特性を示す生態系」に指定されている。
文化財種別:名勝
〒651-2108
兵庫県神戸市西区伊川谷町前開258
Tel:078-974-0408
天台宗太山寺の子院安養院の書院の庭であり、太山寺の原生林を借景として、雄大さを兼ね備えた枯山水の庭園である。
正面に巨石を三尊石風に立て、これを中心に鶴島、亀島の石を組み、その間を谷とし、谷の奥には蓬莱山風に石を組んでいる。
数多くの巨石を使用した枯山水庭園であるが、いわゆる枯山水庭園に見られる砂庭式枯山水庭園とは趣きを異にした庭園となっている。太山寺は、平安時代に創建されたが、たびたび火災に見舞われ、安養院も作庭年代や作者等を明らかにできる史料は失われている。作庭様式と石組手法には桃山時代の特色が表れており、その頃の作庭であることが推察できる。
借景となっている原生林は、環境省の重要地域「区域の生物学的特性を示す生態系」に指定されている。