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関東地方

この地域の文化財指定庭園の場所

偕楽園(かいらくえん)

金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園のひとつ。 天保13年(1842年)水戸藩第九代藩主徳川斉昭により造園された。 偕楽園や千波公園を含む周辺の公園全体の面積は約300ヘクタールと都市公園としては、アメリカ・ニューヨーク市のセントラルパークについで世界第2位。


文化財種別:史跡・名勝

〒310-0033
茨城県水戸市常磐町1-3-3
Tel:029-244-5454


 第九代水戸藩主徳川斉昭が領民と偕に楽しむために造成した公園であり、日本三名園の一つに数えられる。約100品種の梅が3,000本ほど植えられ「梅の公園」として知られる。
 敷地の北側になる表門から入ると、モウソウチクの林が広がり、大きなスギの木立を右に坂を下ると、水が湧き出る「吐玉泉(どぎょくせん)」をみることができる。さらに高台へ向かって進むと「好文亭」にたどり着く。「好文亭」のある高台では敷地の南東に隣接する千波湖や周囲の樹林を一望できる。梅の公園として知られているが、梅のほかにもツツジやハギ、フユザクラなど四季を通じて花を楽しむことができる。
 「偕楽園」の名は、中国の古典「孟子」の一節「古の人は民と偕(みな)に楽しむ、故に能く楽しむなり」から名づけられた。

西山御殿跡 (西山荘)(にしやまごてんあと(せいざんそう))

水戸藩2代藩主徳川光圀の隠居所の邸宅に造られた庭で、久慈川水系の源氏川の谷津の最も奥部に造られている。光圀の死後に編纂された「桃源遺事」に記されている敷地全体の絵図「西山図」には、カリンやウメ、クマザサなどの薬草となる植物が数多く植えられていたことが知られている。


文化財種別:史跡・名勝

313-0007
茨城県 常陸太田市新宿町590
0294-72-1538


 水戸藩2代藩主徳川光圀が、元禄3(1690)年に藩主を退き隠居した邸宅の庭である。御殿は木造平屋建て茅葺屋根の数寄屋造りで、茅葺屋根の棟にイチハツが植えられている。イチハツは昔、大風を防ぐと信じられ藁屋根によく植えられたといわれる。光圀の隠居時にも植えられていたことが、「桃源遺事」にも記載されており、往時の様子をよく残していることがわかる。
 庭は、御殿の南面に広がっており、白蓮池と紅蓮池と呼ばれる2つの池が流れでつながっている。白蓮池は御殿の南西部にあり、池の水は東部にある紅蓮池へと流れている。2つの池の間に御滝と呼ばれる小さな滝があり、流れの途中に注ぐように造られている。御滝は、昭和43年の改修工事で、岩盤をくりぬいたトンネル状の水路が造られ、桜谷津から水を引き込んで滝口に吐水する構造が確認されているが、現在は水が流れていない。御滝の上部は観月山と呼ばれる築山が造られており、光圀が月見の宴を催したといわれる。

 

小石川後楽園(こいしかわこうらくえん)

江戸寛永年間1625年、水戸徳川家の江戸中屋敷(後の上屋敷)の庭として神田上水の分流を引き入れて築造された。 江戸時代初期の典型的な大名庭で、池を中心にした回遊式泉水庭園。 1952年文化財保護法によって特別史跡及び特別名勝に指定される。


文化財種別:特別史跡・特別名勝

〒112-0004
東京都文京区後楽1−6−6
Tel:03-3811-3015

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index030.html


 江戸時代、寛永2(1625)年に水戸藩の初代藩主徳川頼房が築造に着手し、その後、2代光圀に引き継がれて完成した。光圀は、明の遺臣であった儒学者の朱舜水を儒臣として登用し、中国趣味を取り入れて作庭している。庭園は小石川台地の先に位置しており、神田上水を利用して池を中心とした「回遊式築山泉水庭園」である。園名は朱舜水の選名で『岳陽楼記』の「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から命名した。江戸時代大名庭の初期のものとして典型的なものである。
 築造されてから後、安政2(1855)年の大地震、明治13(1880)年に涵徳亭が焼失するなど度重なる変化を受けているため、築造物の中には痕跡を残すだけのものもあるが、池泉と樹林は、往時の美しさを今も残している。

六義園(りくぎえん)

小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられる。 1695年5代将軍徳川綱吉の側用人、柳澤吉保によって7年の歳月をかけて築造された。 和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観を八十八境としてあらわす回遊式築山泉水庭園。 1953年に国の特別名勝に指定された。


文化財種別:特別名勝

〒113-0021
東京都文京区本駒込6-16-3
Tel:03-3941-2222

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index031.html


 江戸時代、元禄年間に柳澤吉保によって造られた。元禄15(1702)年に、「詩経」の六義(りくぎ)からとって「六義園」とし、館を「六義館」と名付けた。江戸時代初期に造られた桂離宮庭園の様式をとりいれた回遊式築山泉水庭園であり、園内には紀州和歌の浦などの和歌に詠まれた名勝の景観である八十八境が配されている。小石川後楽園とともに江戸の二大庭園に数えられた。
 柳澤吉保が官職を退いた後に一時荒廃し、江戸時代後期の文化年間に再興されたが、この時には建物の一部は失われていた。     
 明治になって三菱の岩崎家の所有となり、補修が施されて景観が回復された。改修されたところは少なくなかったが、主要な部分は残されており、現存する大名庭園のうちでは有数のものとされる。

旧浜離宮庭園(きゅうはまりきゅうていえん)

潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。 潮入の池とは、海水を引き入れ潮の干満によって池の趣を変えるもの。 現在も実際に海水が出入りする唯一の庭園。 1952年国の文化財保護法に基づき特別名勝及び特別史跡に指定された。


文化財種別:特別史跡・特別名勝

〒104-0046
東京都中央区浜離宮庭園1−1
Tel:03-3541-0200

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index028.html


 潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を引き入れ潮の干満によって池の趣を変えるもの。東京都に残る大名庭園のうち、現在も実際に海水が出入りする唯一の庭園である。
 江戸時代初期(寛永年間)までは一面の芦原で、将軍家の鷹狩の場所であった。承応3(1654)年に、甲府宰相の松平綱重が甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建て、後に六代将軍家宣の時、将軍家の所有となり浜御殿と改められた。
 庭園は北側と南側で様子が異なっており、南側は海水を引き込んだ大泉水を中心とした景観が造られている。池の周囲は散策できる回遊路が廻らされ、各所に橋が架けられており、池辺や湖上からの景色を楽しむことができる。園の東側と西側それぞれに鴨場が設けられている。往時は、南東にお台場と房総の山々を遠望し、西方は遙かに富士山を望んだといわれるが、現代では東京湾のウォーターフロントの高層ビル群が背景となっている。

旧芝離宮庭園(きゅうしばりきゅうていえん)

小石川後楽園と共に、江戸初期の大名庭園の一つ。 元禄年間、小田原藩主大久保氏の上屋敷経営にともなって作庭される。 のちに清水家、紀州徳川家と伝わり、明治8年宮内省の所管に移り、翌9年芝離宮となった。 1979年に文化財保護法による国の名勝に指定された。


文化財種別:名勝

〒105-0022
東京都港区海岸1−4−1
Tel:03-3434-4029

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index029.html


 江戸時代延宝6(1678)年に、当時の小田原藩主であった老中・大久保忠朝が、徳川家から海を埋め立てた土地を拝領する。元禄年間に入り、その土地に上屋敷を構えるのに伴って作庭された。屋敷を建てるために小田原から庭師を招いて庭を造り、当時は「楽寿園」と称した。幕末から明治初期にかけて所有者を数度変えたのち、明治8(1875)年に宮内省の所管となり、翌9年には「芝離宮」となった。
 庭園の主体は、岬や入り江などがある曲がりくねった汀線をもつ広い池で、池の中央の島に東西に橋を架けるなど、中島の蓬莱石組、築山の配置、石の組み方、橋の架け方など、古くから伝わる作庭の手法を残している。
 江戸時代に造られた、大名庭の作庭技法が見られる優れた庭園の一つ。

向島百花園(むこうじまひゃっかえん)

江戸時代、文化・文政期の1805年に造られた。 開園当初は梅園を主体として営まれたが、後に園主や文人達の構想で詩歌にゆかり深い草本類が多数栽培される。 小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なる庶民的で、文人趣味豊かな趣きをもつ庭園。


文化財種別:史跡・名勝

〒131-0032
東京都墨田区東向島3−18−3
Tel:03-3611-8705

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index032.html


 町人文化の最盛期となる文化・文政期に、骨とう商を営む佐原鞠塢が、向島にあった旗本の屋敷跡を買い求めて造られた庭園であり、江戸時代後期の経済的、文化的に豊かになった庶民によって造られた民営の花園である。開園当初300本以上のウメが植えられ、「新梅屋敷」と呼ばれた。文人達の構想で、万葉集の草木や詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培し、1年中花の絶えることがなく「百花園」とも称された。
 建物、池や園路、30基を超える石碑が配された地割は優れたものであり、現代に残る数少ない江戸時代の文人庭の遺構である。江戸時代からの建物は昭和20年に焼失するが、今も景観は当時の趣きをのこしており、都内に現存する他の大名庭園とは異なる美しさを見ることができる。

旧古河氏庭園(きゅうふるかわしていえん)

大正6(1917)年、飛鳥山の南東の台地とその南側の斜面に造営され、台地下の斜面から低地にかけた回遊式の日本庭園は、1919年に完成した。 東京に特徴的な台地・斜面・低地の地形を生かした庭園は、近代の東京において造営された庭園の典型。


文化財種別:名勝

〒114-0024
東京都北区西ケ原1−27−39
Tel:03-3910-0394

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index034.html


 大正時代に古河虎之助が造営した庭園。武蔵野台地の東端にある飛鳥山の南東にあり、台地と南側の斜面、低地を巧みに利用して造られている。
敷地北側の台地上には主屋の洋館を中心に造られた整形式の洋風庭園が、台地の斜面から低地の敷地南側には、回遊式の日本庭園が造られている。そして敷地の東側に茶室とその露地があり、洋風庭園、日本庭園、茶室の庭の3要素から構成されている。
洋風庭園は主屋とともにジョサイア・コンドルの設計で、大正6(1917)年に造られ、日本庭園は京都の庭師7代目小川治兵衛(植治)によって作庭された。東京の特徴的な地形を生かし、伝統的な手法と近代的な技術によって和洋の見事な調和を実現している。近代の東京に造られた庭の原型を留める貴重な庭園である。

殿ヶ谷戸庭園(隨冝園)(とのがやとていえん)(ずいぎえん)

国分寺崖線の南側斜面を利用し、その縁辺部の湧水と斜面部の雑木林など豊かな自然環境を巧みに生かした近代の郊外別荘。 園内の「次郎弁天の池」は東京都名湧水57選にも選ばれている。 2011年に国の名勝に指定された。


文化財種別:名勝

〒185-0021
東京都国分寺市南町2-16
Tel:042-324-7991

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index036.html


 武蔵野台地の南縁を成す東西方向の段丘崖は「国分寺崖線」と呼ばれ、随所に小さな谷戸が段丘を刻み、ハケと呼ばれる崖線の下端部付近の礫層から湧出する湧水がある。殿ヶ谷戸庭園は、崖線の地形と湧水を利用し、武蔵野を代表するアカマツ・クヌギ等から成る雑木林の風致を生かして造られた近代の別荘庭園である。敷地は、南に張り出す台地の東辺にあり、高低差が10m以上ある崖線の傾斜地を挟んで、台地上の平坦地から下方の湧水地へと及ぶ。
 庭園は、門から主屋西側の玄関前の馬車回しへと通ずる導入路馬車道、主屋の南東面、台地上に広く展開する芝生地の洋風庭園、アカマツやモミジ、竹林などの樹林とクマザサに覆われた崖線斜面、崖線下の湧水を利用して造成した次郎弁天池を中心とする和風庭園の四つで構成され、それぞれ道・石段・延段などによって結ばれている。

旧朝倉文夫氏庭園(きゅうあさくらふみおしていえん)

日本の近代彫刻界の巨匠である朝倉文夫の住居兼アトリエ。創作活動と後進指導の場として使い続けたアトリエ棟には屋上庭園があり、昭和初期における鉄筋コンクリート建築の屋上緑化の事例として貴重である。建物を含む敷地全体が国の名勝に指定されている。


文化財種別:名勝 

〒110-0001
東京都台東区谷中7−18−10
Tel:03-3821-4549

ホームページ:www.taitocity.net/zaidan/asakura/


 日本の近代彫刻界の巨匠・朝倉文夫のアトリエを兼ねた邸宅の庭で、東京谷中の住宅街の一角にある。朝倉文夫が亡くなる昭和39(1964)年まで自らの創作活動と後進指導の場として使い続けた。
 昭和10(1935)年の改築によって、現在みられる鉄筋コンクリート造のアトリエ棟や木造の住居棟などの建物が形づくられた。四方を建築物に囲まれた中庭は南北約10m、東西約14mの空間で、その大半を池(水面)が占めている。随所に各地より取り寄せた石が配され、春はウツギ、秋はモミジなどが楽しめ、多彩な景石と植木とで濃密な水景を創りあげている。また、アトリエ棟の屋上庭園は、昭和初期に建てられた鉄筋コンクリート建築の屋上緑化の事例として貴重である。
 当時屋上は、朝倉文夫が自邸とアトリエにおいて開いた「朝倉彫塑塾」の塾生が蔬菜を栽培しており、日常的な園芸実習の場として使われていた。

瑞泉寺庭園(ずいせんじていえん)

鎌倉時代末期、夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園。 池をはじめ全域にわたって埋没、荒廃していたが、昭和44〜45年に発掘復原された。 夢窓疎石の初期の作庭遺構で書院庭園の原点となる庭園であり、鎌倉に残る鎌倉時代の唯一の庭園。


文化財種別:名勝 

〒248-0002
神奈川県鎌倉市二階堂710
Tel:0467-22-1191


 鎌倉時代末期の1327年に夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園。境内から拝観できる池庭の池畔には、凝灰岩の岩をえぐって削り出して造られた「岩庭」と呼ぶべき特徴ある意匠をみることができる。この池庭から急な坂を登ると山頂の小亭にいたる。この小亭は、「徧界一覧亭」と称されている。「徧界」とはすべての世界のことを指し、山頂にあって周囲を一望できることからその名がついた。
 江戸時代には寺の全域にわたって埋没、荒廃していたが、昭和44(1969)〜45(1970)年に発掘、復元された。名僧であり作庭家である夢窓疎石の初期の作庭遺構である。鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園であり、書院庭園のさきがけをなす貴重な庭園である。

建長寺庭園(けんちょうじていえん)

 庭園は園内に建つ江戸時代の1692年の銅碑より江戸時代初期の作庭もしくは当時の改修によるものである。 方丈(住職の居所)の背後にあり、池に鶴島と亀島を配し、蓬莱山に見立てた蓬莱石を据えた蓬莱式庭園とも呼ばれる。回春院の大覚池は創建時に境内一帯を水害から守るための調整池として造られた。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-8525
神奈川県鎌倉市山ノ内8
Tel:0467-22-0981


 建長寺は臨済宗建長寺派の本山であり、北条時頼の開基で建長5(1253)年に創建された寺である。境内は対称型様式で、仏殿の前栽に槙柏が列状に植栽されている。
 書院庭園は、延宝6(1678)年の図絵に見ることができ、園内に建てられている元禄5(1692)年の銅製の碑によれば、江戸時代初期の作庭か、あるいは当時実施された改修とあわせての作庭と推察される。現在の庭は、江戸初期の図絵にもとづいて、平成15年(2003)に復元整備されたものである。庭園の造りは、東から北にかけて丘があり、丘脚部に曲線形の池が配置されている。池には鶴島と亀島が配置されており、橋が架けられていた。所々に石が据えられ、マツやマキなどの針葉樹の矮樹が植えられているほかにツツジが点植され、灯籠が据えられている。庭の周囲にはケヤキやカエデなどが鬱蒼と茂り、全体に簡素でありながら清雅の趣がある庭となっている。

円覚寺庭園(えんがくじていえん)

総門に通じる白鷺池(びゃくろち)と称する池には四季折々の自然の情景が周囲を飾り、仏殿の前にはビャクシンの古木がある。 住職の居所である方丈には妙香池(みょうこうち)と称する池を中心にした庭園があり、これらは昭和7年(1932)、国の名勝に指定された。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-0062
神奈川県鎌倉市山ノ内409
Tel:0467-22-0478


 仏殿の後背にある舎利殿の台地の下に「妙香池」と称される放生池が配置されている。この池を中心とした庭園は、建武2(1335)年に臨済宗の僧夢窓疎石によって作られたといわれている。
池は岩盤を掘って作られており、北岸の山側に波浪によって浸食されたかのように削られた岩盤、「虎頭岩」が配置されている。この庭は江戸時代初期の絵図にもとづき、平成12年(2000)、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元された。
 明治期の横須賀線の敷設や、県道の開通によって境内の往時の形体は損なわれ、方形の広場などは、その痕跡をとどめていないが、総門の前に敷かれた線路を挟んだ踏切の向こう側には、左右対称の方池が残されている。この池は「白鷺池」、池に架かる石橋は「降魔橋」と称される。石橋はまっすぐに総門に通じており、周囲には鬱蒼としたスギの老樹が立つなど、往時の面影をとどめている。

三溪園(さんけいえん)

東京湾に面した「三之谷」と呼ばれる谷あいの地に近代横浜随一の実業家、原三溪により造られた。明治39(1906)年に一般公開された外苑と、私庭としていた内苑に分かれる。京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころ。


文化財種別:名勝 

〒231-0824
神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
Tel:045-621-0634

ホームページ:www.sankeien.or.jp


 横浜市東南部の丘陵と谷からなる変化に富んだ地に、近代横浜の実業家・原三溪(本名、富太郎)により造られた。三溪は明治32(1899)年に家督を相続し、まもなくして自らの構想で造営を始めた。明治35(1902)年に「鶴翔閣」を新築し、旧天瑞寺寿塔覆堂や茶室寒月庵等の移築を始めた。明治38(1905)年、関西方面に庭園視察のため庭師を派遣し、翌年には現在の外苑部分が概ね整備を終え、同年5月に、一般公開された。私園の公開は、当時において画期的な試みであった。開園後も造営は続き、大正11(1922)年に聴秋閣が移築されて完成された。
 代表的な景観として、対岸の丘の上に旧燈明寺三重塔を仰ぐ大池や、前面の池の水面に映り込む緑の丘陵を背景にした臨春閣、緑豊かな渓流と聴秋閣の絶妙の対比などがある。
 庭園内部からの視覚に、近代化による周辺環境の変化をうかがわせるものがほぼ遮断されている点など、大都市の大庭園としては稀有の特色をもつ。