史跡」カテゴリーアーカイブ

史跡一覧

史跡に指定された庭園の一覧です。

史跡の場所

南湖公園(なんここうえん)

日本の公園制度は明治に入った1873年から始まるが、それに先んじた江戸時代末期、白河藩の第12代藩主松平定信により、身分の差を越え武士も庶民も憩える「士民共楽」という思想を掲げて、庭園の要素を取り入れて享和元年(1801)に築造された。 1924年に国の史跡・名勝に指定される。


文化財種別:史跡・名勝

〒961-0812
福島県白河市南湖1番地外
Tel:0248-27-2310 
白河市建設部文化財課

ホームページ:http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001385.html


 江戸時代の寛政の改革で知られる白河藩主松平定信により築造された。定信は、身分の差を越えて誰もが憩え、塀がなく、いつでも誰でも訪れることができる場を造った。
 公園は北になだらかな丘陵と、南に池(南湖)があり、周囲一帯の広々とした景色を作っている。丘陵には松が茂り、その中に様々な樹木が混生している。樹林の中には種類に富んだ草花が生育し、四季折々に楽しむことができる。西の那須連山、南の関山などを借景とした、奥行きのある景観も、訪れる人の目を楽しませている。
 遊山だけでなく築造自体が領民の失業対策でもあり、また、新田開発など多様な目的をもって造られた景勝地で、池沼を中心にされた例は少なく、園名は、中国の作庭君「洛陽名園記」にある「湖園」の儀式を模したと考えられる。
 なお、「南湖」の名称は、中国の詩人李白の「南湖秋水夜無煙」の詩から取ったとも、居城小峰城の南にあるからとも言われる。

偕楽園(かいらくえん)

金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園のひとつ。 天保13年(1842年)水戸藩第九代藩主徳川斉昭により造園された。 偕楽園や千波公園を含む周辺の公園全体の面積は約300ヘクタールと都市公園としては、アメリカ・ニューヨーク市のセントラルパークについで世界第2位。


文化財種別:史跡・名勝

〒310-0033
茨城県水戸市常磐町1-3-3
Tel:029-244-5454


 第九代水戸藩主徳川斉昭が領民と偕に楽しむために造成した公園であり、日本三名園の一つに数えられる。約100品種の梅が3,000本ほど植えられ「梅の公園」として知られる。
 敷地の北側になる表門から入ると、モウソウチクの林が広がり、大きなスギの木立を右に坂を下ると、水が湧き出る「吐玉泉(どぎょくせん)」をみることができる。さらに高台へ向かって進むと「好文亭」にたどり着く。「好文亭」のある高台では敷地の南東に隣接する千波湖や周囲の樹林を一望できる。梅の公園として知られているが、梅のほかにもツツジやハギ、フユザクラなど四季を通じて花を楽しむことができる。
 「偕楽園」の名は、中国の古典「孟子」の一節「古の人は民と偕(みな)に楽しむ、故に能く楽しむなり」から名づけられた。

西山御殿跡 (西山荘)(にしやまごてんあと(せいざんそう))

水戸藩2代藩主徳川光圀の隠居所の邸宅に造られた庭で、久慈川水系の源氏川の谷津の最も奥部に造られている。光圀の死後に編纂された「桃源遺事」に記されている敷地全体の絵図「西山図」には、カリンやウメ、クマザサなどの薬草となる植物が数多く植えられていたことが知られている。


文化財種別:史跡・名勝

313-0007
茨城県 常陸太田市新宿町590
0294-72-1538


 水戸藩2代藩主徳川光圀が、元禄3(1690)年に藩主を退き隠居した邸宅の庭である。御殿は木造平屋建て茅葺屋根の数寄屋造りで、茅葺屋根の棟にイチハツが植えられている。イチハツは昔、大風を防ぐと信じられ藁屋根によく植えられたといわれる。光圀の隠居時にも植えられていたことが、「桃源遺事」にも記載されており、往時の様子をよく残していることがわかる。
 庭は、御殿の南面に広がっており、白蓮池と紅蓮池と呼ばれる2つの池が流れでつながっている。白蓮池は御殿の南西部にあり、池の水は東部にある紅蓮池へと流れている。2つの池の間に御滝と呼ばれる小さな滝があり、流れの途中に注ぐように造られている。御滝は、昭和43年の改修工事で、岩盤をくりぬいたトンネル状の水路が造られ、桜谷津から水を引き込んで滝口に吐水する構造が確認されているが、現在は水が流れていない。御滝の上部は観月山と呼ばれる築山が造られており、光圀が月見の宴を催したといわれる。

 

向島百花園(むこうじまひゃっかえん)

江戸時代、文化・文政期の1805年に造られた。 開園当初は梅園を主体として営まれたが、後に園主や文人達の構想で詩歌にゆかり深い草本類が多数栽培される。 小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なる庶民的で、文人趣味豊かな趣きをもつ庭園。


文化財種別:史跡・名勝

〒131-0032
東京都墨田区東向島3−18−3
Tel:03-3611-8705

ホームページ:teien.tokyo-park.or.jp/contents/index032.html


 町人文化の最盛期となる文化・文政期に、骨とう商を営む佐原鞠塢が、向島にあった旗本の屋敷跡を買い求めて造られた庭園であり、江戸時代後期の経済的、文化的に豊かになった庶民によって造られた民営の花園である。開園当初300本以上のウメが植えられ、「新梅屋敷」と呼ばれた。文人達の構想で、万葉集の草木や詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培し、1年中花の絶えることがなく「百花園」とも称された。
 建物、池や園路、30基を超える石碑が配された地割は優れたものであり、現代に残る数少ない江戸時代の文人庭の遺構である。江戸時代からの建物は昭和20年に焼失するが、今も景観は当時の趣きをのこしており、都内に現存する他の大名庭園とは異なる美しさを見ることができる。

建長寺庭園(けんちょうじていえん)

 庭園は園内に建つ江戸時代の1692年の銅碑より江戸時代初期の作庭もしくは当時の改修によるものである。 方丈(住職の居所)の背後にあり、池に鶴島と亀島を配し、蓬莱山に見立てた蓬莱石を据えた蓬莱式庭園とも呼ばれる。回春院の大覚池は創建時に境内一帯を水害から守るための調整池として造られた。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-8525
神奈川県鎌倉市山ノ内8
Tel:0467-22-0981


 建長寺は臨済宗建長寺派の本山であり、北条時頼の開基で建長5(1253)年に創建された寺である。境内は対称型様式で、仏殿の前栽に槙柏が列状に植栽されている。
 書院庭園は、延宝6(1678)年の図絵に見ることができ、園内に建てられている元禄5(1692)年の銅製の碑によれば、江戸時代初期の作庭か、あるいは当時実施された改修とあわせての作庭と推察される。現在の庭は、江戸初期の図絵にもとづいて、平成15年(2003)に復元整備されたものである。庭園の造りは、東から北にかけて丘があり、丘脚部に曲線形の池が配置されている。池には鶴島と亀島が配置されており、橋が架けられていた。所々に石が据えられ、マツやマキなどの針葉樹の矮樹が植えられているほかにツツジが点植され、灯籠が据えられている。庭の周囲にはケヤキやカエデなどが鬱蒼と茂り、全体に簡素でありながら清雅の趣がある庭となっている。

円覚寺庭園(えんがくじていえん)

総門に通じる白鷺池(びゃくろち)と称する池には四季折々の自然の情景が周囲を飾り、仏殿の前にはビャクシンの古木がある。 住職の居所である方丈には妙香池(みょうこうち)と称する池を中心にした庭園があり、これらは昭和7年(1932)、国の名勝に指定された。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-0062
神奈川県鎌倉市山ノ内409
Tel:0467-22-0478


 仏殿の後背にある舎利殿の台地の下に「妙香池」と称される放生池が配置されている。この池を中心とした庭園は、建武2(1335)年に臨済宗の僧夢窓疎石によって作られたといわれている。
池は岩盤を掘って作られており、北岸の山側に波浪によって浸食されたかのように削られた岩盤、「虎頭岩」が配置されている。この庭は江戸時代初期の絵図にもとづき、平成12年(2000)、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元された。
 明治期の横須賀線の敷設や、県道の開通によって境内の往時の形体は損なわれ、方形の広場などは、その痕跡をとどめていないが、総門の前に敷かれた線路を挟んだ踏切の向こう側には、左右対称の方池が残されている。この池は「白鷺池」、池に架かる石橋は「降魔橋」と称される。石橋はまっすぐに総門に通じており、周囲には鬱蒼としたスギの老樹が立つなど、往時の面影をとどめている。

三溪園(さんけいえん)

東京湾に面した「三之谷」と呼ばれる谷あいの地に近代横浜随一の実業家、原三溪により造られた。明治39(1906)年に一般公開された外苑と、私庭としていた内苑に分かれる。京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころ。


文化財種別:名勝 

〒231-0824
神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
Tel:045-621-0634

ホームページ:www.sankeien.or.jp


 横浜市東南部の丘陵と谷からなる変化に富んだ地に、近代横浜の実業家・原三溪(本名、富太郎)により造られた。三溪は明治32(1899)年に家督を相続し、まもなくして自らの構想で造営を始めた。明治35(1902)年に「鶴翔閣」を新築し、旧天瑞寺寿塔覆堂や茶室寒月庵等の移築を始めた。明治38(1905)年、関西方面に庭園視察のため庭師を派遣し、翌年には現在の外苑部分が概ね整備を終え、同年5月に、一般公開された。私園の公開は、当時において画期的な試みであった。開園後も造営は続き、大正11(1922)年に聴秋閣が移築されて完成された。
 代表的な景観として、対岸の丘の上に旧燈明寺三重塔を仰ぐ大池や、前面の池の水面に映り込む緑の丘陵を背景にした臨春閣、緑豊かな渓流と聴秋閣の絶妙の対比などがある。
 庭園内部からの視覚に、近代化による周辺環境の変化をうかがわせるものがほぼ遮断されている点など、大都市の大庭園としては稀有の特色をもつ。

貞観園(ていかんえん)

江戸中期に創設された林泉園池。作庭の手法は京都風ながら佐渡の赤玉石を多く使用し、地元の特色をもつ。 園内にはスギゴケやジャゴケなどの苔が百数種類を数え、苔で有名な京都の西芳寺などに次いで稀にみる苔の庭。


文化財種別:名勝

〒945-1502
新潟県柏崎市高柳町岡野町593
Tel:0257-41-2100

ホームページ:www.teikanen.jp/


 江戸中期に創設された林泉園池で、大庄屋であった村山家の庭であり、八代当主亀石翁の時には、幕府の庭師であった九段仁右衛門と藤井友之進らが招かれ、作庭に関わったといわれる。
 園名は、天保14(1843)年に越後の儒学者、藍澤南城が、中国、六朝時代の詩人であった謝康楽の詩句「遺情捨塵物、貞観丘壑美」からとって、命名した。謝康楽は繊細な表現で山水の美をうたった詩人であったとされる。
 貞観堂という堂の前に池を造り、滝流れを造っている。数多くの庭石を置き、「觀瀑亭」、「四時庵」、「抱月樓」、「環翠軒」と称される茶室などの建物が配されている。小堀遠州の手法を取り入れて、桂離宮を模して造られており、京都風ながら佐渡の赤玉石を多く使用し、地元の特色も持っている。園内にはスギゴケやジャゴケなどの苔が百数種類を数え、苔で有名な京都の西芳寺などに次いで稀にみる苔の庭となっている。

江馬氏館跡庭園(えましやかたあとていえん)

中世の北飛驒地方を治めていた江馬氏の居館に築かれた庭園遺構。発掘調査の成果に基づき、会所(かいしょ)と塀に囲まれた園池を中心とする庭園空間全体を復元整備したもので、室町時代における庭園文化の地方への伝播を示す重要な事例である。


種別:史跡・名勝

〒506-1121
岐阜県飛騨市神岡町殿573-1

Tel:0578-82-6001

江馬氏の城館跡は、下館(居館)と背後に築かれた高原諏訪城(山城)を中心として、領域内に点在する山城群によって構成され、これらは昭和55年に国の史跡指定を受けている。このうち、下館の庭園区画については、平成29年に国の名勝指定を受けている。

庭園は、発掘調査によって15世紀末から16世紀初頭にかけて完成したものと想定している。会所と土塀に囲まれた空間に景石石組みを伴う不整形の園池が設えられている。枯滝石組みや中島・岩島といった景石群を配し、会所西側に張り出した月見台の正面には洲浜を設けて、多様な意匠と視点を演出している。園池の池底は、透水層から成って枯れ池の意匠を呈している。

庭園の視点場である会所は、往時と同様の庭園景観を楽しむことができる。さらに、詳細な検討によって復元した建物内部の空間は、武家の儀礼や饗応の様子を追体験することが可能となっている。中世の武家文化に触れることができる庭園としても貴重である。

柴屋寺庭園(さいおくじていえん)

柴屋寺は今川氏に仕えた連歌師宗長が晩年に結んだ草庵。その庭園は宗長の自作である。 庭園は昭和11(1936)年に国の名勝・史跡に指定され、次いで昭和31(1956)年に、寺裏の山林や借景として欠かせない天柱山を保護するため、 滝囲いと表門一帯が追加指定された。


文化財種別:史跡・名勝

〒421-0103
静岡県静岡市駿河区丸子3316
Tel:054-259-3686


 柴屋寺は今川氏に仕えた連歌師宗長が晩年に結んだ草庵「柴屋軒」を、今川氏親が寺に改めたと伝えられる。天柱山柴屋寺の別名を吐月峰柴屋寺ともいう。
庭園は宗長の作庭であることが、彼の手記に記されている。本堂の西側は、平地になっており、そこに小さめの池を掘って、東北側に湧き出る清水から引き込んだ水で満たしている。
池畔には、様々な樹木が植栽され、変化に富んだ立石が配置されている。庭の前方、西に聳える天柱山を借景としている。
 宗長が腰かけて昇る月を眺めたという月見石があり、その後ろには、宗長の師である宗祇と宗長の墓が並んでいる。
 庭園は、昭和11(1936)年に史跡・名勝に指定されていたが、「吐月峰」周辺の環境の変化から、寺後方の竹林や、借景にかかせない天柱山を保護するため、昭和31(1956)年に滝囲いと表門一帯が追加指定された。

善法院庭園(ぜんぽういんていえん)

築庭の年代は明確ではないが、江戸時代初期といわれる。1941年の集中豪雨による山津波で土砂に埋没したが、近年の復興整備による発掘調査でその全貌が明らかとなった。関連する建築物は現存しないが、庭園はかつての様子がよく保存されている。


文化財種別:史跡・名勝

〒520-0036
滋賀県大津市園城寺町246
Tel:077-522-2238

ホームページ:www.shiga-miidera.or.jp/index.htm


 善法院は三井寺の6碩室の子院。築庭の年代は明確ではないが、江戸時代初期といわれる。庭園は昭和9(1934)年に国の名勝・史跡に指定されたが、昭和16(1941)年の集中豪雨による山津波で土砂に埋没した。
しかし、庭園研究の大家・重森三玲による実測図が残されていたことと、林学者で造園の研究者の岡崎文彬らの指導のもと発掘調査が実施され、その全貌が明らかにされた。関連する建築物は現存しないが、庭園の池汀や石組みなどは保存されている。
 大津市歴史博物館のデータベースの記載によれば、書院の前に2つの池があり、中島や石橋、巨石による石組みなど、詳しい地割が判明していることがわかる。しかし、書院、庭園ともいまだ復元はされていない。

妙心寺庭園(みょうじんじていえん)

江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、1965年に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。


文化財種別:史跡・名勝

〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町1
Tel:075-461-5226


 妙心寺は、臨済宗妙心寺派大本山の寺院であり、庭園は江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、近代に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。
 方丈庭園の西側の部分は、室町時代の絵師狩野元信の作であると伝えられ、「元信の庭」と称されている。元信は狩野派の絵画様式の確立者といわれている。
 余香苑は、もとは方丈庭園の背景となっていた竹林があったところで、昭和30年代に竹林が寿命で枯死したため、昭和40(1965)年に新たに作庭された。作庭は、庭園研究家であった中根金作氏の設計、施工で敷地の左右に「陽の庭」、「陰の庭」と名付けられた枯山水の庭が作られている。

玉鳳院庭園(ぎょくほういんていえん)

徳川中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ南庭、山岳、風水泉の3つの庭がある。南庭は一面に白砂が敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが列植されている。山岳の庭と風水泉の庭はともに石組み庭石が巧みに配され、清雅の趣がある。


文化財種別:史跡・名勝

〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町60
Tel:075-461-5226


 臨済宗妙心寺派の大本山の46ある塔頭のうち、最初に建立された寺院で、花園法皇によって建立され、玉鳳禅宮とも称される。表門を入ると正面に庫裏があり、方丈と開山堂(妙心寺の開祖、関山慧玄の遺骸が葬られている堂)が渡り廊下で結ばれ、渡り廊下の北と南に桃山時代の様式の庭園が造られている。
庭園は、江戸時代中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ「南庭」、「鶏足嶺」、「風水泉」の3つの庭がある。
 「南庭」は、白砂が一面に敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが植栽されている。
 「鶏足嶺」の庭は、開山堂の東に築山を築いて山岳風の石組みがされている。「風水泉」の庭は、北側の庭で、枯れ滝、蓬莱石の石組み、飛び石が配され、その中に風水泉と呼ばれる井戸と棗形手水鉢が置かれている。「鶏足嶺」の庭と「風水泉」の庭はともに石組みが巧みに配置された庭となっている。

本願寺大書院庭園(ほんがんじだいしょいんていえん)

書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓の庭」の名で知られる。
白砂敷の上に2つの中島が築かれている。枯滝、岩組は大らかで、力強い様が表され、桃山時代書院式林泉の特色を表現している。


文化財種別:特別名勝・史跡

〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る
Tel:075-371-5181


 親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗本願寺派の本山で、西本願寺ともいう。大書院庭園は書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓の庭」の名で知られる。
 庭園は平庭で、東側に築山が築かれており、数多くの立石が組まれ、5つの灯籠が据えられている。中央よりやや北寄りに、二個の巨石を並立した枯滝の石組みが構えられている。玉石敷きで表された枯流は海を表す白砂敷きに続き、急流が大海に注ぐ様子を表している。2つの中島は、色鮮やかな石を用いて護岸石組みがされ、反りのある石橋と自然石の小橋が架けられている。石組みの間に配植されたソテツは桃山時代の書院式林泉庭園の特色を持ち、力強く堂々とした岩組や枯滝は、桃山時代の作庭精神がよく表れている。

大仙院書院庭園(だいせんいんしょいんていえん)

 大仙院の開山古岳和尚によって作庭された。庭園は本堂の四方に展開しており、庭を廊橋などで区分し、山、川、海を表現している。狭い敷地に多数の岩石を布置し、山水の景色を表現した枯山水の名園。


文化財種別:特別名勝・史跡

〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町54-1 
大仙院
Tel:075-491-8346


 大仙院は、京都市街地の北、大徳寺の中にある塔頭寺院で、永正6(1509)年に大徳寺第76世の大聖国師古岳宗亘が開いた寺院で、その庭園も古岳和尚によって作庭されたことが、大仙院に伝わる文書から判っている。
 庭園は本堂の四方に展開しており、南側は玄関脇の白砂敷に二つの盛砂を並べて大海を表している。東側の庭は北東隅に大石で組まれた枯滝石組が置かれツバキやゴヨウマツを植えて深山幽谷の景色を表現している。枯滝石組の下方には石橋が架けられ、その下流には白砂敷の上に船の形に似た石が据えられて海に続く大河を表している。山、川、海を表現している
庭を中央で二分している廊橋は、明治時代の終わりに撤去されたことがあり、山と海がつながった状態になっていたが、昭和35(1960)年に復元され、名園本来の姿が取り戻された。

萬福寺庭園(まんぷくじていえん)

萬福寺は、平安時代に創建された安福寺を前身とし、現在の地には1374年に「萬福寺」として移築された。庭は、1479年に雪舟により作庭されたといわれる寺院式庭園。正面の心字池、緩やかな築山、渦巻き状に広がる石組は、仏教の世界観である須弥山世界を象徴している。


文化財種別:史跡・名勝

〒698-0004
島根県益田市東町25−33
Tel:0856-22-0302

ホームページ:manpukuji.server-shared.com/


 萬福寺の前身は、平安時代に創建された天台宗安福寺であったが大津波で流出し、その後、時宗の道場として再興され、室町時代の応安7(1374)年に益田七尾第11代城主によって、現在の地に萬福寺として移築された。
庭園は、文明11(1479)年に雪舟により作庭されたといわれる。正面に心字池が置かれた寺院式庭園である。
 池の右側は、背後の樹林が張り出して緑陰の下になっている。向こう岸に枯滝の石組みが置かれ、その手前に岬が仕立てられ、枯滝の左方に蓬莱石が据えられている。池の正面、中ほどを望むと、向こう岸に緩やかな築山が築かれている。築山の最上部に低めの立石が置かれ、下方に向かって渦巻き状に広がるように石組が配置されて、仏教の世界観である須弥山の世界を象徴している。池の左側から建物の西面はより開けた、明るい世界を表した造りになっている。

医光寺庭園(いこうじていえん)

医光寺の前身である崇観寺の5代住職は雪舟で、塔頭のひとつに庭園を作った。崇観寺は戦国時代に荒廃するが、後に医光寺と合併して現在に至る。庭園は鶴をかたどった池に亀島を配置した蓬莱式庭園で、四季折々の表情を見せる。


文化財種別:史跡・名勝

〒698-0011
島根県益田市染羽町4-29
Tel:0856-22-1668


 医光寺は臨済宗東福寺派の寺院で、その前身は崇観寺といい、室町時代に創建された。崇観寺は戦国時代に荒廃したが、益田家17代宗兼によって再興され医光寺となった。
崇観寺の5代住職は水墨画で有名な雪舟であり、塔頭の一つに庭園を造ったのが現在みられる庭園の始まりである。
庭園の様式は、池泉観賞半回遊式で、鶴をかたどった池に亀島が浮かぶ蓬莱式の庭園であり、春の枝垂れ桜、5月のツツジ、夏の緑陰は涼しく、秋にはカエデの大樹が色づく。冬の雪景色は、かつての住職雪舟の水墨画を連想させる。四季折々の違った表情をもっている。
 また、境内には雪舟を火葬にしたという灰塚やこの地で長く続いた領主・益田宗兼の墓、羅漢像など歴史を感じる彫刻なども見ることができる。

常栄寺庭園(じょうえいじていえん)

常栄寺は約500年前、大内政弘が別邸として建てたもので、庭園は大内氏が雪舟に依頼して築庭させたものといわれている。山林を背景に心字池や枯滝、立石を配した庭は、多少改築の跡が認められるが、大部分は古態をよく残している。


文化財種別:史跡・名勝

〒753-0011
山口県山口市宮野下2001−1
Tel:083-922-2272


 常栄寺は約500年前、大内政弘が別邸として建てたもので、庭園は大内氏が雪舟に依頼して築庭させたものといわれている。
庭園は、丘陵の端、東南に開けた小さい谷戸の入り口に位置しており、谷の奥、山に向かって正面として作庭されている。
 その造りは、山林を背景として奥に心字池が置かれている。池より手前の庭地には、枯滝や数々の庭石が配され、立石の手法など、意匠は巧みで趣に富んでいる。
 多少改築された跡が見られるものの、その大部分は往時の状態をよく残しており、作庭した画僧雪舟の代表的な禅味あふれる庭園である。

水前寺成趣園(すいぜんじじょうじゅえん)

湖に見立てた池には小島があり、列で配置された渡石の背後には、ゆるやかな起伏の築山が仕立てられている回遊式庭園。池の水は湧水であり渾々と清水が湧いている。園名の「成趣園」は、陶淵明の詩「帰去来辞」に由来する。


文化財種別:名勝・史跡

〒862-0956
熊本県熊本市中央区水前寺公園8−1
Tel:096-383-0074

ホームページ:www.suizenji.or.jp


 寛永9(1632)年肥後細川家初代藩主・細川忠利が鷹狩の折に、この地を気に入り、御茶屋を置いた。その後、三代藩主網利のときに庭園が完成した。庭園様式は回遊式庭園であり、陶淵明の詩「帰去来辞」より成趣園と命名された。
 庭園は、湖に見立てた池があり、小島が置かれている。列状に配置された渡石の背後には、ゆるやかな起伏が続く築山が仕立てられている。池の水は湧水であり渾々と清水が湧いている。
 元禄時代には、四阿も数多く造られて楽しまれたが、宝暦の改革で建物は酔月亭一つを残して撤去され、樹木も松を残すのみとなる。明治時代になり、版籍奉還で一時、官有地となった。
 園の北側には、細川藤孝・忠興以下歴代の藩主がまつられる出水神社がある。