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平等院庭園(びょうどういんていえん)

平安時代中期の阿弥陀堂と一体になった最古の浄土建築と浄土庭園。当時の貴族たちが希求した極楽浄土の光景を再現している。後年、川の氾濫対策のため堤防が築造されるなど、作庭当時の姿からは一変しているものの、周辺の景観はいまなお昔の風情を残している。


文化財種別:史跡・名勝

〒611-0021
京都府宇治市宇治蓮華116
Tel:0774-21-2861


 平等院は、藤原頼通によって宇治川の中流、宇治橋南東の河畔に建てられた寺院。平安時代の中頃は、日本独自の文化が熟成していくとともに、「末法思想」も広く信じられるようになっていく時代であり、そのような風潮にあって当時の貴族たちは、極楽浄土の世界を希求したといわれる。そのような時代に造られた庭園で、最古の浄土庭園である。
鳳凰堂やそれを取り囲む阿字池は、極楽の宝池を模したもので、その美しい姿が水面に映る様子は、現世に極楽浄土をあらわしているとされる。春はサクラからツツジ、フジが咲き、夏はサルスベリと池のスイレン、秋はモミジ、冬はサザンカにツバキが咲き、四季折々の景色が宇治川の清流や背景の山々を借景に美しく広がる。
後年、川の氾濫対策のため堤防が築造されるなど、作庭当時の姿からは一変しているものの、周辺の景観はいまなお昔の風情を残している。

大沢池附名古曽滝跡(おおさわいけつけたりなこそのたきあと)

大覚寺の東に位置し、周囲約1kmの日本最古の人口の林泉(林や泉水などのある庭園)。嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたって、唐(中国)の洞庭湖を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる。


文化財種別:名勝

〒616-8411
京都府京都市右京区嵯峨大沢町4
Tel:075-871-0071(大覚寺代表)
Tel:075-871-0191(管財課直通)

ホームページ:https://www.daikakuji.or.jp/precincts/


 平安時代前期、嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824)に造営された離宮「嵯峨院」の庭園に池と滝が造られた。中国の「洞庭湖」を模して造られたところから庭湖とも呼ばれている。
池には天神島、菊が島と庭湖石があり、池の北に滝が造られている。発掘調査から築庭当初は、かなりの水量があったと推定されているが、藤原公任(966〜1041)が詠んだ歌に「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」とあるように、平安中期には既に水は枯れていたことが推察できる。
池の畔には、弘法大師が離宮の鎮守として勧請したと伝えられる五社明神が建っている。
多くの桜が植えられた花の名所であり、また月の名所としても名高く、春には花見に、秋には月見に多くの人が訪れる。

醍醐寺三宝院庭園(だいごじさんぽういんていえん)

醍醐寺は平安時代に始まった名刹で座主が居住する三宝院の庭園。応仁・文明の乱により醍醐寺の山内は荒廃するが、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」を契機に復興され、庭園についても優れた庭師たちによって作庭された。


文化財種別:特別史跡・特別名勝

〒601-1325
京都府京都市伏見区醍醐東大路町22
Tel:075-571-0002

ホームページ:www.daigoji.or.jp/garan/sanboin_detail.html


 醍醐寺は平安時代に理源大師聖宝が、「醍醐水」といわれる名水の湧く笠取山に観音像をまつったのが始まりとされる名刹。座主は三宝院に居住していたが、応仁・文明の乱で醍醐寺の山内は荒廃して、三宝院もまた失われた。荒廃した醍醐寺を建て直したのが義演准后で、豊臣秀吉の庇護を受けて寺を再興した。豊臣秀吉は慶長3(1598)年、金剛輪院のあった地に三宝院を新たに造るにあたり、自ら縄を張り3人の庭奉行にもとあった庭を修築させたといわれる。翌年の慶長3年8月に秀吉は亡くなるが、その後は義演の手で修築が続けられ、義演が亡くなるまで27年に渡って築庭された。
 庭は中央に池を置き、3島を設けて9基の橋を架けて南側に築山を築き、東側には滝が架けられている。池の畔には多くの景石が置かれて、その中には歴代の天下人が所有していた名石の「藤戸石」も置かれた。ゴヨウマツやシイ・カシの常緑樹の大木が立ち、「豪放」と「清雅」な趣をあわせ持っている。

慈照寺庭園(じしょうじていえん)

 東山文化を代表する臨済宗相国寺(しょうこくじ)派に属する禅寺の庭園。庭園は夢窓疎石(むそうそせき)が作庭した西芳寺(さいほうじ)の庭園をモデルに造られており、月待山、大文字山を環境とした池泉回遊式庭園である。


文化財種別:特別史跡・特別名勝

〒606-8402
京都府京都市左京区銀閣寺町2番地
Tel:075-771-5725


 東山文化を代表する臨済宗相国寺派に属する禅寺の庭園。室町幕府3代将軍足利義満の北山殿金閣鹿苑寺にならって、8代将軍足利義政が隠居生活のために造営した山荘東山殿の庭であり、夢窓疎石が作庭した西芳寺の庭園を模しているといわれる。
 平地には池泉回遊式庭園、裏山には枯山水庭園の上下2段で構成され、池泉回遊式庭園は錦鏡池と称される池を中心に、銀閣と東求堂が配されている。これらの庭園は、江戸時代初期の改修で景観が大きく変わっている。
 庭園を構成する要素のうち、注目されるのが白砂で造られた銀沙灘と円錐台形の向月台で、中国・西湖の波打つ風景を描写した銀沙灘と、富士山状に造られた向月台は、月に照らされる光の反射を意識して造営されたといわれる。

妙心寺庭園(みょうじんじていえん)

江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、1965年に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。


文化財種別:史跡・名勝

〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町1
Tel:075-461-5226


 妙心寺は、臨済宗妙心寺派大本山の寺院であり、庭園は江戸時代の作庭と考えられる方丈庭園と、近代に新しく造られた余香苑の2つの庭園からなる。方丈庭園は方丈の西と南に広がる枯山水の庭で、その背景となっていた竹林が寿命を迎えて一斉に枯死した後、余香苑が作庭された。
 方丈庭園の西側の部分は、室町時代の絵師狩野元信の作であると伝えられ、「元信の庭」と称されている。元信は狩野派の絵画様式の確立者といわれている。
 余香苑は、もとは方丈庭園の背景となっていた竹林があったところで、昭和30年代に竹林が寿命で枯死したため、昭和40(1965)年に新たに作庭された。作庭は、庭園研究家であった中根金作氏の設計、施工で敷地の左右に「陽の庭」、「陰の庭」と名付けられた枯山水の庭が作られている。

玉鳳院庭園(ぎょくほういんていえん)

徳川中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ南庭、山岳、風水泉の3つの庭がある。南庭は一面に白砂が敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが列植されている。山岳の庭と風水泉の庭はともに石組み庭石が巧みに配され、清雅の趣がある。


文化財種別:史跡・名勝

〒616-8035
京都府京都市右京区花園妙心寺町60
Tel:075-461-5226


 臨済宗妙心寺派の大本山の46ある塔頭のうち、最初に建立された寺院で、花園法皇によって建立され、玉鳳禅宮とも称される。表門を入ると正面に庫裏があり、方丈と開山堂(妙心寺の開祖、関山慧玄の遺骸が葬られている堂)が渡り廊下で結ばれ、渡り廊下の北と南に桃山時代の様式の庭園が造られている。
庭園は、江戸時代中期に作庭された。南部と北部、東部の三区に分れ「南庭」、「鶏足嶺」、「風水泉」の3つの庭がある。
 「南庭」は、白砂が一面に敷かれ、ゴヨウマツとクロマツが植栽されている。
 「鶏足嶺」の庭は、開山堂の東に築山を築いて山岳風の石組みがされている。「風水泉」の庭は、北側の庭で、枯れ滝、蓬莱石の石組み、飛び石が配され、その中に風水泉と呼ばれる井戸と棗形手水鉢が置かれている。「鶏足嶺」の庭と「風水泉」の庭はともに石組みが巧みに配置された庭となっている。

不審菴(表千家)庭園(ふしんあん(おもてせんけ)ていえん)

茶道の三千家のうちの表千家の茶庭(露地)。西側の外露地、残月亭前の露地、祖堂前の露地、不審菴の内露地から成る。このうち不審菴の内露地は最奥で残月亭、祖堂前の広い露地から梅見門をくぐって入る。広くない内露地でありながら深山の静けさを作り出している。


文化財種別:名勝 

〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町597
Tel:075-432-2195


 茶道の三千家のうちの表千家の茶庭(露地)。西側の外露地、残月亭前の露地、祖堂前の露地、不審菴の内露地から成る。
 西側の外露地を通り、露地口から中へ入り「中潜り」を抜けると、右に祖堂へと入る萱門、左には残月亭へつながる飛び石がつづいている。祖堂の前には、蹲踞や空堀などが設けられた広い路地が造られている。
かわって萱門の手前を左に飛び石を進むと、残月亭に至る。残月亭の右手に置かれた井戸や巧みに配置された飛び石、梅見門と程よい植え込みで造られた露地を見ることができる。
 梅見門を潜ると、不審菴の内露地にようやく入ることになる。内露地には右に内腰掛、その傍らに砂雪隠、蹲踞、小さい飛石が配され、躙口へと導く。狭いながら奥深い山を感じさせ、静かな空間を作り上げている。
代々受け継がれていくあいだに、茶室や稽古場などの建物が移築や新築され、そのたびに露地にも手が加えられてきたため、複雑な構成の露地に発展してきた。

今日庵(裏千家)庭園(こんにちあん(うらせんけ)ていえん)

茶道の三千家のうちの裏千家の茶庭(露地)。千家3代千宗旦が隠居屋敷に建てた茶室が始まり。
兜門をくぐり大玄関から腰掛待合、中門へと露地を通り抜けて茶室へと至る。中門は景色を持たせない外露地と、幽玄の趣を盛り上げた内露地とに区別する境界となっている。


文化財種別:名勝

〒602-0061
京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町613
Tel:075-431-3111


 今日庵は、「又隠」とともに裏千家の中心をなす茶室であり、千宗旦が構えた隠居屋敷の中に、2畳の茶室を造ったのがはじまり。
 露地とは、茶室の庭のことで、兜門をくぐり大玄関から腰掛待合、中門へと露地を通り抜けて茶室に至る。
中門は極めて簡素に造られているが、中門を境界として、景色を持たせない外露地と、幽玄の趣を盛り上げた内露地とに区別する露地の構成上、大きな意味を持っている。
外露地は、付属物を省略し常緑樹の緑と、木洩れ日の明暗だけが変化する要素となっている。
内露地は、亭主に迎えられて茶室へ入るまでに通る露地で、席入する客が手水を使う四方仏の蹲踞は、苔むして丸味を帯びた仏体の輪郭も定かではなく、幽玄の趣を盛りあげたつくりとなっている。

二条城二の丸庭園(にじょうじょうにのまるていえん)

二の丸庭園は,寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸のために作事奉行・小堀遠州のもとで改修された庭園。池の中央に蓬莱島,左右に鶴亀の島を配し,二の丸御殿の大広間,黒書院,行幸御殿跡の3方向から鑑賞できるように工夫されている。現存する城郭の築山泉水庭として最も優れたものと言われている。


文化財種別:特別名勝

〒604-8301
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
Tel:075-841-0096


 二の丸庭園は,寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸のために幕府の作事奉行・小堀遠州のもとで行幸御殿に面する庭園として改修された庭園である。
 その後,行幸御殿は移築,撤去されたが,二の丸御殿の大広間,黒書院,行幸御殿跡の3方向から鑑賞できるように工夫された庭園は,変化に富む曲汀を有し,池の中には3箇所の中島(蓬莱島,鶴島,亀島)を置き,自然石の4橋が架けられ,北西隅には3段の瀧を落として池の汀や池辺に多くの石が組まれている。庭園の西部は,マツ,カヤ,クロガネモチ,アラカシ,シイ,トベラ,ムクノキ,サクラ,モミジ等の樹林が庭園の背景を成し,南部は広い芝生となって多数の松がほどよく点在している。庭園内の石組は特に豪宕の趣を有し,現存する城郭の築山泉水庭として最も優れたものと言われている。

本願寺大書院庭園(ほんがんじだいしょいんていえん)

書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓の庭」の名で知られる。
白砂敷の上に2つの中島が築かれている。枯滝、岩組は大らかで、力強い様が表され、桃山時代書院式林泉の特色を表現している。


文化財種別:特別名勝・史跡

〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る
Tel:075-371-5181


 親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗本願寺派の本山で、西本願寺ともいう。大書院庭園は書院の東側にある枯山水の中庭で、「虎渓の庭」の名で知られる。
 庭園は平庭で、東側に築山が築かれており、数多くの立石が組まれ、5つの灯籠が据えられている。中央よりやや北寄りに、二個の巨石を並立した枯滝の石組みが構えられている。玉石敷きで表された枯流は海を表す白砂敷きに続き、急流が大海に注ぐ様子を表している。2つの中島は、色鮮やかな石を用いて護岸石組みがされ、反りのある石橋と自然石の小橋が架けられている。石組みの間に配植されたソテツは桃山時代の書院式林泉庭園の特色を持ち、力強く堂々とした岩組や枯滝は、桃山時代の作庭精神がよく表れている。

本願寺滴翠園(ほんがんじてきすいえん)

飛雲閣の前庭で、飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。飛雲閣は三層の楼閣であって最下層に設けられた船入りによって池に通じるようになっている。池を中心に亭舎を配置し、ツツジや梅等の花木を植え、大石を用いた石組は秀逸。


文化財種別:名勝

〒600-8501
京都府京都市下京区堀川通花屋町下る
Tel:075-371-5181


 滴翠園は、浄土真宗本願寺派の本山である本願寺境内の東南隅に建つ飛雲閣の前庭で、飛雲閣と黄鶴台の建築に伴って築造されたものとされる。飛雲閣は、豊臣秀吉の聚楽第の遺構と伝えられ、金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つとされている。建物は三層の楼閣で、最下層に設けられた船入りによって池に通じるようになっている。
 庭園は、飛雲閣の北側から西側にかけて建物をめぐるように広い池がつくられている。池の形は中央がくびれた形状になっており、そこに石橋が架けられており、この橋を渡って飛雲閣へとたどり着く。飛雲閣から池を望むと、右手に木の間越しに鐘楼が見え、ツツジやウメなどの花木が植えられ、大きな石組みが配されている。池が建物直下まで迫っており、この池に映る建物の形が飛ぶ雲のようであることから「飛雲閣」と名付けられたと伝える。通常、非公開である。

渉成園(東本願寺)(しょうせいえん(ほんがんじ))

渉成園の名称は、中国の詩人陶淵明が故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節から採られたもの。敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったため百間屋敷とも、カラタチ(枳殻)を植えていたために枳殻邸(きこくてい)ともいわれた。


文化財種別:名勝

〒600-8190
京都府京都市下京区珠数屋町通間之町東入東玉水町
Tel:075-371-9210(本廟部 参拝接待所)


 寛永18(1641)年、東本願寺第13代宣如上人の時に、三代将軍・徳川家光から寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされた。
 渉成園の名称は、中国の詩人陶淵明が故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節から採られたもので、池岸の水面に乗り出して設けられた茶亭や、屋根のついた橋(廊橋)など、随所に中国的な雰囲気が見られる。
敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったため百間屋敷とも、カラタチ(枳殻)を植えていたために枳殻邸ともいわれた。庭園には四季折々の花が咲きほこり、変化に富んだ景観は「十三景」と高く評価されている。
 庭の中をめぐって観賞する池泉回遊式庭園ではあるが、池の外周を一周できる作りにはなっていない。

鹿苑寺庭園(ろくおんじていえん)

 金閣寺には舎利殿の前面に広がる鏡湖池と、北側の一段高いところにある安民沢と呼ばれる2つの池がある。池には大文字山から水が流入しており、大雨による多量の出水時に土砂が流入するため、安民沢には鏡湖池の沈砂池としての機能がある。


文化財種別:特別史跡・特別名勝

〒603-8361
京都府京都市北区金閣寺町一番地
Tel:075-461-0013


 室町幕府3代将軍足利義満は、将軍職を子の義持に譲り出家した後、応永4(1397)年に西園寺家の山荘を譲り受け、北山殿を造営した。義満の死後、その遺命によって寺とされ、義光の法号である鹿苑院にちなんで鹿苑寺と称された。
 金閣寺には舎利殿(金閣)の前面に広がる鏡湖池と、北側の一段高いところにある安民沢と呼ばれる2つの池がある。
 舎利殿の前面に広がる鏡湖池は池泉回遊式庭園で、岸や中島に景石を多用している。
 池の水は、大文字山から流入しており、大雨による多量の出水時には土砂が流入するため、一段高い安民沢に流入させ、水中の砂泥を沈下させてから鏡湖池へ流しだす沈砂池としての機能がある。金閣の裏側にある安民沢は、景石も少なく、西園寺公経が鎌倉時代に造営した池と考えられている。

大仙院書院庭園(だいせんいんしょいんていえん)

 大仙院の開山古岳和尚によって作庭された。庭園は本堂の四方に展開しており、庭を廊橋などで区分し、山、川、海を表現している。狭い敷地に多数の岩石を布置し、山水の景色を表現した枯山水の名園。


文化財種別:特別名勝・史跡

〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町54-1 
大仙院
Tel:075-491-8346


 大仙院は、京都市街地の北、大徳寺の中にある塔頭寺院で、永正6(1509)年に大徳寺第76世の大聖国師古岳宗亘が開いた寺院で、その庭園も古岳和尚によって作庭されたことが、大仙院に伝わる文書から判っている。
 庭園は本堂の四方に展開しており、南側は玄関脇の白砂敷に二つの盛砂を並べて大海を表している。東側の庭は北東隅に大石で組まれた枯滝石組が置かれツバキやゴヨウマツを植えて深山幽谷の景色を表現している。枯滝石組の下方には石橋が架けられ、その下流には白砂敷の上に船の形に似た石が据えられて海に続く大河を表している。山、川、海を表現している
庭を中央で二分している廊橋は、明治時代の終わりに撤去されたことがあり、山と海がつながった状態になっていたが、昭和35(1960)年に復元され、名園本来の姿が取り戻された。

聚光院庭園(じゅこういんていえん)

臨済宗大徳寺派に属する寺院・聚光院は茶道の三千家ゆかりの寺。その方丈の南面にある枯山水の庭園は、千利休の作庭と伝えられ約50坪の広さを持つ。据えられた石はすべて小ぶりであるが、要所に立石を据えて景色に変化を与えている。


文化財種別:名勝

〒603-8231
京都府京都市北区紫野大徳寺町58
Tel:075-492-6880


 聚光院は、永禄9(1566)年三好義嗣が父長慶の菩提をとむらうため、大徳寺百七世笑嶺宗きんを招いて建立した臨済宗大徳寺派に属する寺院で、笑嶺和尚に参禅した千利休が檀家となって以来、茶道三千家の菩提所となっている。境内には利休の墓を中心に三千家歴代の墓所がある。
庭園は、方丈の南面にある枯山水庭園で、千利休の作庭と伝えられ約50坪の広さを持つ。石組の多さから「百積の庭」と称されている。
一面の苔で被覆された庭は生垣で背景を区切り、生垣に沿って東から西に二群に分けて石組みが配置されている。その中央に石塙でわずかに小高くされている。石はすべて小ぶりなものが使われており、要所に立石が据えられて、景色に変化を加えている。

照福寺庭園(しょうふくじていえん)

照福寺本堂及び書院の北側にある含勝庭と呼ばれる庭園。「含勝堂仮山記」という園記が寺に残っており、天保14(1843)年、住職仙裔和尚の自作であることがわかっている。綾部地方には古庭園がまれであることから、作者・作庭年代が明白な点で価値が認められている。


文化財種別:名勝

〒629-1263
京都府綾部市鷹栖町小丸山33
Tel:0773-46-0185


 照福寺本堂及び書院の北側にある含勝庭と呼ばれる庭園。「含勝堂仮山記」という園記が寺に残っており、天保14(1843)年住職仙裔和尚の自作であることがわかっている。
 寺の北に由良川が流れ、遠山を望み、背後には山が控える景勝地にある。
庭は、正面左手奥に築山が配され、守護石が立てられている。その脇に石を組んだ枯滝が置かれている。築山はなだらかに右手に延びて、その正面中央にも立石が据えられ、枯滝が設けられ、石橋が架けられている。石組には、地元の山石が利用されている。築山の下には枯池が配され、築山の山すそを、岬のように手前に突出させて島のように見せている。池をめぐって打たれた飛び石は本堂と書院をつないでいる。
綾部地方には古庭園がまれであることから、作者・作庭年代が明白な点で価値が高い。

南禅寺方丈庭園(なんぜんじほうじょうていえん)

南禅寺は鎌倉時代の正応4(1291)年に創建された寺で、住持の居所である方丈の庭園。庭園は江戸時代初期の小堀遠州の作と伝えられている。築山や巨石を立てて仏教的世界観を表現した日本庭園とは違い、石を寝かして配置した平庭の枯山水庭園で、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれている。


文化財種別:名勝

〒606−8435
京都府京都市左京区南禅寺福地町86 
Tel:075-771-0365


 南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山で、方丈は慶長16(1611)年に女院御所の旧殿を移築したもので、庭園も同じころに作られたものと考えられている。
 庭園は小堀遠州の作と伝えられており、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園で、方丈と築地塀で整然とした長方形に区画され白砂が敷かれた平庭である。方丈から見た庭の左奥に主石を置き、さらに塀沿いに右へ数個の石が配されて、方丈の前面と右手は白砂の広い空間が広がっている。景石の間にモミジ、マツ、モチノキ、ツバキ、丸く刈り込まれたサツキなどが植えられている。白砂、庭石、庭樹、築地塀が作り出す景色が、背景の松林や山と一体となって調和のとれた庭園となっている。築地塀の白壁には薄青色をした5本の定規筋が水平に引かれている。定規筋は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院であることの証で、筋の数が寺の格式を表しており、5本線は最高格式とされる。