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坪川氏庭園(つぼかわしていえん)

福井県内に現存する最古の民家である坪川家住宅の庭園。住宅は特徴的な茅葺屋根の豪壮な造りをした建物で、当時の地方豪農の暮らしぶりを偲ばせる。庭園は屋敷東側の主庭園と西側の西庭があり、隣接する山から引き込んだ清流を巧みに利用して造られている。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係)

〒910-0205
福井県坂井市丸岡町上竹田30-11
Tel:0776-67-2111


 福井県に残っている民家で最も古く、江戸時代初期に建てられたと推定される坪川家住宅の庭園である。
 敷地全体に水路が縦横に巡らされており、池庭やかつては農地であった所に菖蒲園などが造られている。敷地を流れる水は隣接する背後の山の谷奥より清流を引き込んだもので、生活用および庭園池泉用の水として利用している。引き入れられた水は、池の東端中央部に位置する滝口から園池へと注ぎ込んでいる。山裾の斜面を掘削して造られた池は南北に細長く、山側の東岸は地形を利用した峡谷のような深い入り江や、急勾配の部分があるなど変化に富んだ汀線となっており、景石が随所に配置されている。水の流れ、菖蒲園、巨樹が混生する屋敷林などが良好な環境を創り出して庭園の重要な特質となっている。
 豪雪地帯の農家であるため開口部の小さい建築構造となっており、池庭を観賞するためには屋外に出ることになる。多くの庭園が座敷から観賞するように造られているなかでは希少であり貴重である。

南禅寺方丈庭園(なんぜんじほうじょうていえん)

南禅寺は鎌倉時代の正応4(1291)年に創建された寺で、住持の居所である方丈の庭園。庭園は江戸時代初期の小堀遠州の作と伝えられている。築山や巨石を立てて仏教的世界観を表現した日本庭園とは違い、石を寝かして配置した平庭の枯山水庭園で、俗に「虎の子渡し」の庭と呼ばれている。


文化財種別:名勝

〒606−8435
京都府京都市左京区南禅寺福地町86 
Tel:075-771-0365


 南禅寺は臨済宗南禅寺派の総本山で、方丈は慶長16(1611)年に女院御所の旧殿を移築したもので、庭園も同じころに作られたものと考えられている。
 庭園は小堀遠州の作と伝えられており、江戸時代初期の代表的な枯山水庭園で、方丈と築地塀で整然とした長方形に区画され白砂が敷かれた平庭である。方丈から見た庭の左奥に主石を置き、さらに塀沿いに右へ数個の石が配されて、方丈の前面と右手は白砂の広い空間が広がっている。景石の間にモミジ、マツ、モチノキ、ツバキ、丸く刈り込まれたサツキなどが植えられている。白砂、庭石、庭樹、築地塀が作り出す景色が、背景の松林や山と一体となって調和のとれた庭園となっている。築地塀の白壁には薄青色をした5本の定規筋が水平に引かれている。定規筋は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院であることの証で、筋の数が寺の格式を表しており、5本線は最高格式とされる。

旧堀氏庭園(きゅうほりしていえん)

旧堀氏庭園は主屋の前庭、楽山園、和楽園、畑迫病院の外構造園の4箇所の園地から成る庭園。優れた意匠・構造をもつ多彩な造園的要素で構成されており、白石川の谷地形及び川沿いの土地利用とも一体となった独特の景観をみることができる。


文化財種別:名勝

〒699−5622
島根県鹿足郡津和野町邑輝795
Tel:0856-72-0010


 堀氏は江戸時代石見銀山の中の笹ヶ谷銅山の経営を担う銅山師たちの1人で津和野の有力な一族である。庭園は白石川沿いに建てられた住宅の主屋に南面する枯山水庭園と、15代堀藤十郎礼造が明治33(1900)年に建てた数寄屋建築「楽山荘」の庭園「楽山園」、大正4(1915)年白石川対岸の傾斜地に築造した「和楽園」と養魚池、堀氏が鉱山開発に関わった労働者や住民のために建設した畑迫病院の外構の造園の遺構を含む計4箇所から成る。
 主屋書院に南面する庭は土塀で囲まれた簡素で小規模な枯山水庭園で、江戸時代に定着した書院前庭の定型を見ることができる。楽山園は、2段になった滝石組や池辺の飛び石に沿った雪見燈籠や層塔型石灯籠などの石造物が見どころとなっているほか、主座敷から庭を望むと白石川沿いの水田から対岸の和楽園へ連続する風景が展開する。
 和楽園では、地形の特性を活かした様々な意匠が施されており、上方の展望地点からは白石川沿いの谷筋全体を望むことができる。畑迫病院跡は堀氏に関係した重要な福祉医療施設の遺跡であり、近代の病院施設に施された造園の遺構として貴重である。

岡﨑氏庭園(おかざきしていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。表口から裏口に通り抜けられる通り庭の形態をしており、座敷と中央の蔵をつなぐ縁側に沿って、狭いながらも奥行を演出した中庭がある。近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係)

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ロ213
Tel:0856-72-0005


 岡﨑氏庭園は旧津和野藩の城下町において、現在まで残されている約20におよぶ町民の住宅庭園の一つである。岡﨑氏は幕末の嘉永7(1854)年に創業した呉服太物、様端物、小間物を取り扱う御用商人で、「さゝや」の屋号で城下町中心の本町通りの中ほどに商家を構えた。庭園は仏間・主座敷の南から蔵座敷の東面と南面にかけて直角に曲がって巡りながら、奥の座敷へと通じる縁側の南に造られている。正確な作庭時期は不明であるが嘉永6(1853)年の大火の後、建物の改築に伴って現在見られる姿に変化を遂げてきたものとみられる。
 隣地と隔てる塀までの狭い帯状の空間に石で組んだ枯滝が設けられ、その南側に石組みとマツやイロハモミジなどの樹木が植えられた築山が造られている。築山は奥に向かって徐々に高くなっており、大きな立石と景石を据えて変化を持たせている。縁側を歩くにしたがって展開する枯流れや築山の意匠と佇まいは狭い空間を広く見せる工夫に満ちている。

財間氏庭園(ざいましていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。通りに面する表門内側の小さい前庭と主屋の東に面した主庭園からなっている。近世以来の商家の名残をとどめた近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ハ38
Tel:0856-72-2867


 財間氏庭園は旧津和野藩の城下町において、現在まで残されている約20におよぶ町民の住宅庭園の一つである。明治32(1899)年に、建築された津和野を代表する大型の町家建築である。酒類を販売する店舗と現在の主屋が建てられるに伴い、庭園の原形が造られたと考えられている。
 庭園は前庭と主庭園からなり、前庭は表門の内側に灯籠と1本のマツが植えられ、マツの周りに巨石を組んだ石組みが小空間を創り出し、庭門を通って蔵の前の小規模な庭へとつながっている。主庭園は主屋の奥座敷と仏間の東面に造られており、軒先近くに2つの水盤状の小さな池と庭石、燈籠、蹲踞などが配置され、周囲に飛び石が巡らされている。奥座敷の沓脱石から庭の奥へ飛び石が配され、石橋でつながる2つの築山の周囲を巡っている。奥座敷から庭を眺めると、最奥部の築山の頂部に据えられた春日燈籠と複数の立石が、庭外に望む青野山の景色をつないでいる。

田中氏庭園(たなかしていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。通り沿いの用水路から敷地へ引き入れた水を利用した池泉回遊式庭園で、津和野城下の他の池泉庭園とも共通する特徴を持っている。近世以来の商家の名残をとどめた近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ロ70
Tel:0856-72-1661


 田中氏庭園は旧津和野藩の城下町において、現在まで残されている約20におよぶ町民の住宅庭園の一つである。明治19(1886)年に製糸業を営んだ三浦五郎右衛門が主屋を建築した際に庭園の原形ができたと考えられている。昭和2(1927)年に絹織物で財を成した田中氏のものとなり、現在の庭園が成立した。
 庭園は、店舗と主屋の西南側に位置しており、座敷から観賞できるだけでなく、池の周囲を回遊できる池泉回遊式庭園である。庭園は通り沿いに建つ店舗・主屋と土蔵の間に設けられた表門から飛石を打った狭い前庭を経て、主屋と土蔵とをつなぐ渡り廊下に開けられた潜り門を抜け、津和野城跡の城山を背景とした緑豊かな池泉庭園へと至る。池の南岸には築山が造られており、頂部に据えられた立石と植栽された樹木とともに深山の趣を創り出している。前庭の飛石は主屋前面の沓脱石からの飛石と合流し、奥にある稲荷社と築山の頂部を経て池泉の周囲を巡って、随所に燈籠や庭石などの景物を楽しめるように造られている。

椿氏庭園(つばきしていえん)

旧津和野藩の城下町において、幕末から明治時代中期にかけて発展、成長した町民の住宅庭園である。庭の意匠や構成は近世から近代の坪庭の様式と共通するものがあり、近世以来の商家の名残をとどめた近代津和野における造園文化の発展を示す庭園である。


文化財種別:登録記念物(名勝地関係) 

〒699−5605
島根県鹿足郡津和野町後田ロ190
Tel:0856-72-0021


 分銅屋(椿家)は慶長年間(1596年〜)の頃より、現在地において、和蝋燭、鬢付油、菜種油、椿油等を製造販売していた。元禄15(1703)年、徳川幕府の命で、作成された「津和野藩町並図」には、すでに「分銅屋半兵衛」として現在と同じ場所に描かれており、津和野藩の「八人衆」の一人として認定されて、その印として暖簾名の家紋を鋳出した黄銅の花活(薄端)が下賜され、今日まで伝わっている。
 建物は、嘉永6(1853)年の津和野城下大火災後、同年すぐさま建て直された。大火の直後のため、材木の調達が困難であり、焼け残った建物の中から再利用できそうな材木や敷居などの廃材を集めて造作した、所謂「火事後普請」の家屋である。江戸時代の商家建築の典型的な「町屋造り」の形態を留めており、国の「登録有形文化財」として指定されいる。
 庭園は、中庭が「椿氏庭園」として「登録記念物」に指定されている。江戸時代の作庭とされ、嘉永6年の大火の痕跡(黒い焦げ跡や石割れ)を石組の踏石で確認することができる。江戸時代には、明かりが十分では無く、また、風を入れる必要があったため、当時の町屋では、一般的に中庭が作られていた。飛石と飛石の間には、全面に杉苔が群生しており、風流を醸し出している。