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瑞泉寺庭園(ずいせんじていえん)

鎌倉時代末期、夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園。 池をはじめ全域にわたって埋没、荒廃していたが、昭和44〜45年に発掘復原された。 夢窓疎石の初期の作庭遺構で書院庭園の原点となる庭園であり、鎌倉に残る鎌倉時代の唯一の庭園。


文化財種別:名勝 

〒248-0002
神奈川県鎌倉市二階堂710
Tel:0467-22-1191


 鎌倉時代末期の1327年に夢窓疎石が瑞泉寺を興したときに作られた庭園。境内から拝観できる池庭の池畔には、凝灰岩の岩をえぐって削り出して造られた「岩庭」と呼ぶべき特徴ある意匠をみることができる。この池庭から急な坂を登ると山頂の小亭にいたる。この小亭は、「徧界一覧亭」と称されている。「徧界」とはすべての世界のことを指し、山頂にあって周囲を一望できることからその名がついた。
 江戸時代には寺の全域にわたって埋没、荒廃していたが、昭和44(1969)〜45(1970)年に発掘、復元された。名僧であり作庭家である夢窓疎石の初期の作庭遺構である。鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園であり、書院庭園のさきがけをなす貴重な庭園である。

建長寺庭園(けんちょうじていえん)

 庭園は園内に建つ江戸時代の1692年の銅碑より江戸時代初期の作庭もしくは当時の改修によるものである。 方丈(住職の居所)の背後にあり、池に鶴島と亀島を配し、蓬莱山に見立てた蓬莱石を据えた蓬莱式庭園とも呼ばれる。回春院の大覚池は創建時に境内一帯を水害から守るための調整池として造られた。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-8525
神奈川県鎌倉市山ノ内8
Tel:0467-22-0981


 建長寺は臨済宗建長寺派の本山であり、北条時頼の開基で建長5(1253)年に創建された寺である。境内は対称型様式で、仏殿の前栽に槙柏が列状に植栽されている。
 書院庭園は、延宝6(1678)年の図絵に見ることができ、園内に建てられている元禄5(1692)年の銅製の碑によれば、江戸時代初期の作庭か、あるいは当時実施された改修とあわせての作庭と推察される。現在の庭は、江戸初期の図絵にもとづいて、平成15年(2003)に復元整備されたものである。庭園の造りは、東から北にかけて丘があり、丘脚部に曲線形の池が配置されている。池には鶴島と亀島が配置されており、橋が架けられていた。所々に石が据えられ、マツやマキなどの針葉樹の矮樹が植えられているほかにツツジが点植され、灯籠が据えられている。庭の周囲にはケヤキやカエデなどが鬱蒼と茂り、全体に簡素でありながら清雅の趣がある庭となっている。

円覚寺庭園(えんがくじていえん)

総門に通じる白鷺池(びゃくろち)と称する池には四季折々の自然の情景が周囲を飾り、仏殿の前にはビャクシンの古木がある。 住職の居所である方丈には妙香池(みょうこうち)と称する池を中心にした庭園があり、これらは昭和7年(1932)、国の名勝に指定された。


文化財種別:史跡・名勝

〒247-0062
神奈川県鎌倉市山ノ内409
Tel:0467-22-0478


 仏殿の後背にある舎利殿の台地の下に「妙香池」と称される放生池が配置されている。この池を中心とした庭園は、建武2(1335)年に臨済宗の僧夢窓疎石によって作られたといわれている。
池は岩盤を掘って作られており、北岸の山側に波浪によって浸食されたかのように削られた岩盤、「虎頭岩」が配置されている。この庭は江戸時代初期の絵図にもとづき、平成12年(2000)、方丈裏庭園と合致した自然の姿に復元された。
 明治期の横須賀線の敷設や、県道の開通によって境内の往時の形体は損なわれ、方形の広場などは、その痕跡をとどめていないが、総門の前に敷かれた線路を挟んだ踏切の向こう側には、左右対称の方池が残されている。この池は「白鷺池」、池に架かる石橋は「降魔橋」と称される。石橋はまっすぐに総門に通じており、周囲には鬱蒼としたスギの老樹が立つなど、往時の面影をとどめている。

三溪園(さんけいえん)

東京湾に面した「三之谷」と呼ばれる谷あいの地に近代横浜随一の実業家、原三溪により造られた。明治39(1906)年に一般公開された外苑と、私庭としていた内苑に分かれる。京都や鎌倉などから集められた歴史的建造物と四季折々の自然とがみごとに調和した景観が見どころ。


文化財種別:名勝 

〒231-0824
神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
Tel:045-621-0634

ホームページ:www.sankeien.or.jp


 横浜市東南部の丘陵と谷からなる変化に富んだ地に、近代横浜の実業家・原三溪(本名、富太郎)により造られた。三溪は明治32(1899)年に家督を相続し、まもなくして自らの構想で造営を始めた。明治35(1902)年に「鶴翔閣」を新築し、旧天瑞寺寿塔覆堂や茶室寒月庵等の移築を始めた。明治38(1905)年、関西方面に庭園視察のため庭師を派遣し、翌年には現在の外苑部分が概ね整備を終え、同年5月に、一般公開された。私園の公開は、当時において画期的な試みであった。開園後も造営は続き、大正11(1922)年に聴秋閣が移築されて完成された。
 代表的な景観として、対岸の丘の上に旧燈明寺三重塔を仰ぐ大池や、前面の池の水面に映り込む緑の丘陵を背景にした臨春閣、緑豊かな渓流と聴秋閣の絶妙の対比などがある。
 庭園内部からの視覚に、近代化による周辺環境の変化をうかがわせるものがほぼ遮断されている点など、大都市の大庭園としては稀有の特色をもつ。